2011年1月31日月曜日

新年会

昨夜(31日)斗南藩士18名がむつ市はねやホテルへ集結した。鉄砲も刀も槍も持たず、一升瓶だけぶらさげて。進行役は例によって家老の内藤介右衛門信節、私、斗南藩史生の挨拶の後、市議の菊池氏より市議会での(本人よりの)斗南藩関係の史跡の維持管理や資料館建設に関わる質疑に関する説明があり、その後前会長の乾杯でいよいよ宴会に入りました。が
何といっても人気№1は榮川でした。それもそのはず、会津の酒です。みるみるメモリーは下がりっ放し、あっというまに数本がカラカラ音をたててました。
一時間も経つといよいよ本音がでてきます。話題の主なものはやはり会津から来た先祖の話とこの次は何時会えるかです。仲の良い兄弟よりも深い絆で結ばれている様な気がします。
然し会津人の血は熱い!意見の合わない時は、徹底的に我をとおす!(ならぬものはならぬ?)それでも折り合いがつかない時は抜刀??までは行かない。次の日けろりとしている。
話はそれで収まらない10年後(三分の一はこの世にいないかも?)の150年祭(斗南藩立藩)の事や他県の会津会との交流の話や孫の話、可愛いワンコの話etc
最後は2月の蕎麦会と、その1週間後に岩魚と山女の骨酒を酌み交わす約束をしておやすみしました。

2011年1月28日金曜日

仁和賀山

私は古くから大間の町に伝わる稲荷神社例大祭の山車、大黒様を祭る仁和賀山(にわかやま)の一員です。子供達に郷土芸能を伝達し、町の伝統を守りたいと云う立派な考えを信条としてガンバッテおります。その為山車関係者一統は月に一回定例会という固い名称の、固い会議を、雨がふっても槍が降っても確実に実行しております。でも本州最北端の小さな町は年々高齢化と過疎化が進み一昨日の晩も集まったのは10人程でした。しかし、一通り簡単な会議の後がスゴイ!!
まずお神酒を御馳走になります。そのあとは飲み放題、自由行動(会費制です)、時間が経過すると、ドットコが始まります。ドットコはお祭りの時3000円以上のご祝儀を頂いた家にお礼のお祝いとして掛ける祝いの詩です。古くは北海道の鰊漁で網を引き揚げる時の沖上げ音頭が起源のようです。これを全員で大声で始めるわけです、ですから一年中お祭りをしているわけですね?
世間ではよく祭りバカと云う言葉を耳にしますが、小生は全く気になりません。これをやると、常々溜まったストレスが一瞬に飛んで行ってしまうからです。嘘だと思う方は八月八日からのお祭りに是非ご参加を。大歓迎です。寿、マモちゃん、堅蔵、教授、友哉、皆待ってるよー

費金覚記その4

一金、一銭    氷水一杯
一金、二十五銭   ガラス取写真(ガラス板に写真をとること)
一金、一銭      西南戦争ならびに国名所アブラ絵見物
一金、五銭      澤氏小児方へ菓子
一金、弐銭      札菓子同小児方へ
一金 三厘      生人形を見る節、目鏡代
一金 五銭五厘   牛鍋 一枚ならびに飯一人前
一金、弐銭四厘   菓子
一金、六銭五厘   写真大臣方ノ書
一金、弐銭      郵便ハガキ
一金、六銭      茶碗
一金、十銭五厘   五月二十五日より同三十日まで牛のちち一日五夕(缶コーヒーの半分)ずづ
一金、弐円七十五銭   掛布団
一金、一円八十銭    敷き布団
一金、十三銭五厘    白金巾大々幅、四寸五寸敷き布団の上に敷く品
一金、十四銭       布団えり
一金、四十三銭七厘五毛    ランプ
一金、二銭   箸箱
一金、一銭   箸一膳
一金、十四銭   石版一枚
一金、一銭     石筆一本
一金、八銭     汁椀
一金、五銭     白木綿三尺枕がは(枕カバー)

一金、六銭     澤氏より同人社まで人力車、但し荷物
一金、一円     澤氏へ謝礼
一金、二円     入社金但し入塾する節一度に限る
合計金高
十九円八十三銭四厘五毛
前後合計金高
二十八円五十八銭二厘一毛

裏表紙
此司主人
青森懸管轄第六大区四小区(下北郡北通り)陸奥国北郡大間村
三十五番地
士族    木村重功




























    

2011年1月23日日曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳

これは戊辰戦争の記録です。日記を書かれた人物は複数人ですが原文のまま
投稿してみました。
注釈
御霊櫃峠    郡山市の近く
朔日       月初め1日のこと
御筒       鉄砲 
扣        控の異体字
三ツハントウ白磨御筒    鉄砲の種類(火縄銃)
丸玉       鉄砲の弾
管、替火つ    銃に点火する時の部品
壱=1
弐=2
壬 (みずのえ)
普請方    城内外の修築をした労働者並びに大工
胴乱    皮、布製の腰に下げる袋
母衣(ほろ)役   カバー、守る人、のぼりを持つ役 
趣    お考え、意向
御情扶持   手当て   


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その1
慶応四辰五月朔日同六日三森御陣屋へ引移ル
御渡御筒並ニ付属之品扣
1、弐拾挺     三ツハントウ白磨御筒
1、弐拾      胴乱
1、弐拾      背負皮
1、弐拾      三俣
1、弐千      丸玉
1、三千      管
1、弐拾      替火つ
右之通請取申候以上      北嶋松四郎
壬四月廿八日          古川代次郎

大炮打手御渡金之扣
北嶋松四郎、荒川鷹治、武藤善治細裂之者〆但壱人前壱両ツツ
外ニ壱人前壱分ツツ宿料金〆三両三分
磯田庄三郎、荒井寅之助、大竹熊三郎、古川代次郎、安部門次郎、樋口善吉、小林庄蔵
荒井佐膳〆八人但し、ゑり裂之者壱人前三分ツツ
外ニ壱人前壱分ツツ宿料金〆八両也
右之通り相渡申候以上
請取人   荒井寅之助
同      古川代次郎



*明治13年6月20日戊辰戦死者13回忌招魂祭追善咏歌
 (10代から20代の若い人達の短歌です)

君か為め死出の山路を越えてこそ千歳に香る名は残りけり
                            森 ときゑ子
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その2
御渡金之扣
1、拾七両壱分      弐拾人分
  内壱人  壱両ツツ  細裂之上(身分)
  内壱人  三分ツツ  ゑり裂(身分)  拾壱人
1、五両         弐拾人分
  
  内壱人壱分ツツ  宿料金
大炮打ノ手之者共へ
五月二日
1、かん五拾ツツ七人分名々渡す
八日
1、玉薬四十発ツツ七人分、小林庄蔵江合渡(へ渡す)
、但今日御呼成ニ付(呼ばれて)、三代御本陣へ罷成候処(行ったところ)
  左之通今処分(今後のやりかた)被仰付候間(仰せつけられたが)、今御知も可有御座候得共(今後御通知があるであろうから)、御心得被為申上候(そのつもりで、いてください)  以上
五月
御霊櫃   杉田隊五拾人組
       地方弐拾九人組
三森峠   坂部隊、地方(じかた)、猟師、大炮打手書上之者
追分峠   遊撃隊、御普請方
鶏峠    純義隊、塩見仙吾

津田範三様
此度坂部三十朗義三森守衛相勤なから御霊櫃峠両処守衛申聞(きかせ)明日
人数召従二日出張(出陣)致候事、壬四月二十八日、母衣役、津田範三御附被成候事(おつけなされそうろうこと)但

百人を十所におき備こそ
千の敵にも打勝ときけ

戊辰戦死者十三回忌招魂祭追善咏歌

鳴けや鳴け山ほとときす声そえて
なき人まつる、さみたれの空
            木間なか子(十三歳)

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その3
五月五日
1、三両弐分  不時(無事)金受取る、 役人加藤平左衛門より、但し御霊櫃峠ニテ 坂部三十朗
五月五日
1、横沢村善吉と申す者、白川表探索申し付け、郡山、本宮辺迄罷出候様(まかりいで、そうろうよう)ニ候 以上
五月五日
1、新妻籐助着致ニ付、御渡金壱両壱分相渡候 以上 但大炮懸り(係)
八日
1、小川定次郎着致しに付き御渡し金壱両壱分相渡(あいわたし)候 以上
御霊櫃峠詰   隊長 杉田兵衛
          正隊長 荒川栓太郎、山口 勇、森幾右衛門
1、五月五日
御霊櫃峠青龍隊交代相成候(あいなりそうろう)   以上
地方無役、新兵衛倅、満田左司間
中地御鼻、番助之倅、取締役被仰付候。  鈴木 勇
中地口御番所出入り    渡部七朗
右三人者共三森峠江(へ)五月九日より出張に相成候  以上

口上之覚
1、以書付奉願上候(書き付けをもって、願い上げたてまつりそうろう)。此の度大炮打ち手、
  弐拾人お渡しに相成り候所、右人別(名簿)の内、御情扶持、新妻籐助と申す者に、此の
  節四境に御人数に罷りいで候者御情扶持者共へ御情扶持を被召抜、右役々被仰付候
  趣傳承致候趣にて、手元迄申しいで候所、一統被仰付候義も御座そうらはば、籐助義も
  厚く御吟味之上御情扶持被召抜、大炮打ち手に被成替候様奉願上候。 以上
 辰五月十五日                    坂部三十朗


徒らに世には残れとある甲斐もなみたなからに忍ふけふかな
                          橋爪瀧江子



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その4
以書付奉願上候。此節不正之気候に付病人次第に出来申候ニ付先置?而申迄ハ三代口小池隊
付之医師罷有先置?而申宮川戦争以来付き添罷越此節病人出来致候も療治も可致候様無之、塩見仙吾留主中厚情事諸事取計候様、頼母殿より被仰付候ニ付医師之義塩見方へ打合申候処
医師之義ハ相願候趣申聞候故、只今迄相扣(ひかえ)罷在候間今ニ何之御沙汰も無御座候。
御霊櫃御陣屋へも医師御渡し無之趣伝承致、畢竟此節御人不足にも可有御座と奉存候。
地方御家人差配之者一同願書申出候ニ付御人不足之此節柄屹度(きっと)御用弁にも相成申と至急ニ
御吟味之上奉願上候   以上  五月  坂部三十朗


月花に風流かりせし往昔を忍へははれぬさみたれのそら
                        橋爪芳城
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その5
口上之覚
私共仲ヶ間小川定助、親宗彦義医師望月宗僢?門弟ニ罷成御医道修行仕罷在候間
生質篤実成者ニ而病家深切ニ致、近郷ハ勿論遠近御城下迄も広療治致罷有候間
医学之儀ハ本道科中等迄ニ相進み、既ニ老年京都紀州花岡門弟ニ罷成、其の上長崎
迄罷越諸名家相尋療治著敷候者此節柄空敷差置申候段歎敷儀ニ奉存候間兼而仲ヶ間
心安候処より療治受度候間当年ハ別候ヘハ不気候ニ御座候ヘハ湿気にも相請ケ怪我
損傷致候節早速療治致候様被仰付度奉願上候右心附之次第奉言上候故之趣宜様
被伝達被下置度奉存候 以上
五月十五日  堀田兵右衛門  杉原初之助
坂部三十郎様



山裂る飛火の中にきえてこそたけきその名は世にひかりけれ
太田直蔵
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その6
別紙之趣心得其意武藤幾之助申出候可被申聞候 以上
五月二十三日
左之者坂部三十郎へ付属大炮打手相勤候様可被申聞候 以上
五月二十三日
三代口小人  武藤幾之助
別紙之通被伝聞候間此旨可被得其意  以上
五月二十五日 荒川岩之進殿   郡役所
左之者共必坂部三十郎へ付属大炮打手相勤候様可申聞  以上
五月二十四日  浜深口小人善三郎忰(せがれ)
                  渡部善吾
                  半沢万五郎                                                                                                              
口上之覚
別紙之通被仰付候趣只今相達申上候以書付御請申上候
御覧後本書当人江御渡被下度奉存候  以上
五月二十七日    荒川岩之進
坂部三十郎様


目の前に見ゆる昔の俤(おもかげ)も今日言の葉ときゆるかなしさ
                            北海漁夫
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その7
口上之覚
当御関所小人半沢万五郎、渡部善三郎忰善吾義ニ付御下宿江
差出候様被仰聞仍而両人差出申候其後日被下度義故  以上
五月二十七日    荒川岩之進
坂部三十郎様

五月二十三日申渡之覚
 諸月番
所々戦争之節死傷之者共左之通御手当被成下候但(ただし)疵(きず)ヶ所深浅ヲ顕し
病院見付出候様此旨得其意仲ヶ間并組支配へも可被申聞候事
御家来之軽一統
一、三両    深手之者
一、壱両弐分  浅手之者
町在之者
一、弐両    深手之者
一、壱両    浅手之者
一、三両    死傷之者

御困難ニ付而ハ御家中無給之子弟まて御軍役ニ付召使候処何れとも志ヲ立
夫々之御用向憤発相勤候ニ付左之通御扶持被下候此旨被得其意仲ヶ間并
御軍役相勤候子弟共可申聞候事
一、三人扶持ツツ  花影紐以上
一、弐人扶持ツツ  独札より紐製之子弟
一、壱人半扶持ツツ  甲賀格以下軽之子弟


姿には見えねと曇る俤(おもかげ)をまつるこころの思ひこそしれ
                       北海漁夫
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その8
五月二十三日
非常御切迫之此節ニ付而ハ御用無之罷在候
面々之志ヲ立申出候ハハ戦地之御用向可被仰成候条
早々可申出候、此旨被得其意仲ヶ間并組支配へも可被
申聞候事別紙利趣被致承知、仲ヶ間へ可被相備候  以上
                           郡役所
五月二十五日
武藤善四郎殿
1、三代口下番武藤幾之助、浜坪下番渡部善吾同断
  半沢万之助大炮打ち手被仰付出張致ニ付御定之通
  金壱両ツツ請取申候  以上
                   坂部三十郎
五月二十三日
兵粮方
此度大炮打手出張致候処御定之通金壱両ツツ御渡
相成候ニ付慥(たしか)ニ受取申候  以上
                  浜坪小人


血を吐て啼声添ひよほととぎす十まり三とせの五月雨の空
                              よしき
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その9
五月二十八日
半沢万五郎
渡部善吾
坂部三十郎様
1、二本松領只野村之女壱人参り居候処舟滞村江取抑(おさえ)置候処
  先方へ取合及吟味ニ慥ニ只野村商職衆舟津御用橋より被申出候ニ付
  右人江添人附三森峠送出申候事
  付
  五月二十九日
1、御霊櫃峠御出張鈴木大長始荒川健太郎、森幾右衛門、附人六人 合九人
  右之通御人数三森峠地乗為見分正月晦日ニ御出張ニ相成候ニ付
  御賄差出候事
  卯正月晦日
1、濃?共儀峠へ為登候処御霊櫃峠も相下候由三森峠之儀も
  六月朔日共相下ヶ申候事
  六月朔日
1、金七両弐分也
  右之通為探索金鎧小?長より六月二日に請取申候事



思ひ出て昔のけふを忍ふかな あはれ身にしむさみたれのそら
                          小山田孝清

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2011年1月21日金曜日

下北へ来た白虎隊

明治3年斗南藩領(岩手県北より青森県旧南部領)へ陸路、海路で移住してきた、白虎隊の少年達はむつ市の大湊で白虎隊の解散式をやったと、代々云われている。場所は多分ヤンシー号の上陸地以外考えられません。山育ちの会津衆が船酔いに疲れ、死ぬ思いで到着した、安渡港で最初に見たのが巨大な山、釜臥山だったからだと思います。釜臥山は会津磐梯山に非常に良く似ている為、その後旧会津藩士(斗南藩士)達は毎日のように山を見て故郷を偲んでいました。飯盛山で自刃した19名の中で石山寅之助の家族の流れを汲む、むつ市在住の石山さんは私達の同士であり、時々杯を汲みかわしていますし、又私の近所に有る阿弥陀寺のおばあちゃんは青森市のお寺の出身ですが、幼少の頃、有賀ちよ、と云う盲目のおばあちゃんが、その寺にいて、毎日白虎隊の話をしては涙を流していたそうです。おばあちゃんは、針子をしながら飢えを凌いでいるうち、その寺の住職さんの目にとまり、そのお寺さんに世話になっていたようです。19名の中の1人有賀織之助の身内だったのでは?白虎隊士350名と云われているが、ただ1人生き残った、飯沼貞吉(15歳)辞世の句(自刃する為直前に詠んだ句)

梓(あずさ)弓むかふ矢先はしげくとも、ひきなかへしそ武士(もののふ)の道

青森県三戸町の観福寺に明治4年斗南藩士によって建立された白虎隊士の墓があります。

2011年1月18日火曜日

ついに大間の町から伊達直人出現

今朝18日の朝刊を見て驚きました。大間のまぐろ漁師が東京都児童相談センターと青森県内鶴田町の児童養護施設へ38万円づつ匿名で寄贈したとありました。全国的に一時的な流行のように言われてもいますが、同じ町に住む一町民として、こんなすごい話に感動しました。1本2000万とか3000万とか報道される度に羨望の目で見られがちですが、実際には船の借金の返済と燃料代と人件費を引けば、かなり厳しい台所事情なのは地元の人達は知っています。其れにもめげず、施設へ寄贈したまぐろ漁師の心の中には1月11日の船玉神の祭礼日に釣り上げた事が彼の神に対する感謝の心を動かした原因なのと、もうひとつ11日の津軽海峡はかなりの荒れ模様で少数の船しか出漁していませんでした。その厳寒の海でも、釣り上げたその勇気と努力が成せばなると云う可能性を子供達への夢としてプレゼントしたかったのではないでしょうか。斗南藩士も感服しました。

2011年1月16日日曜日

費金覚記 その3

一金 十四銭五厘  阿久津駅宿代  
一金 四銭      昼飯代
一金 十八銭    阿久津駅より久保田駅まで舟三里
一金 一銭     船頭酒代
一金 一銭三厘  草靴一足
一金 八厘     卵一つ
一金 三十五銭  久保田駅より境駅まで人力七里
一金 一銭     車夫酒代
一金 七厘五毛  センベイ
一金 一銭五厘  菓子
一金 十九銭   境駅半旅篭並びに同村より東京大橋迄舟
一金 八厘    同所より両国橋まで舟
一金 四銭五厘 朝飯
一金 二銭    船中布団代
右田名部駅より東京までの路金合計金八円七十四銭七厘六毛
ただし内一円二十五銭一厘は不入用具石硯
こりより東京着後入塾まで
一金 一銭五厘    菓子
一金 十六銭五厘  東京馬喰町宿代
一金 六銭二厘五毛  同宿昼飯
一金 二銭   半紙一状
一金 二十銭  足駄並びに緒
一金 一銭七厘  日本橋あたりまで遊歩の戻りの節、人力
一金 十銭    同宿より澤氏まで人力
一金 二銭    車夫酒代
一金 十六銭  足袋一足
一金 十二銭五厘  金米糖(コンペイトウ)一箱澤氏へ
一金 八十四銭   袴仕立てたる品、但しのり付きにあらず
一金 二十銭    原田氏へ
一金 十銭     郵便切手ならびにハガキ
一金 八銭     上野駅より新橋シテーションまで人力車
一金 三十銭    新橋シテーションより横濱シテーションまで汽車
一金 五銭     シテーションより和田氏まで人力車
一金 二円   和田氏へ        
一金 三十銭  和田祖母様方、乳汁一ブリキ(一缶)   
一金 五銭  横浜より神奈川シテーションまで人力
一金 二十五銭  神奈川シテーションより新橋シテーションまで汽車
一金 二十五銭  旧知事公(松平容大は数え十歳)に献ず
一金 五銭  シテーションより人力車
一金 十九銭三厘五毛  鰻飯二膳並びに泉岳寺案内賃
一金 二銭  新書筆一本
一金 十四銭五厘  足駄ならびに緒共に
一金 四銭  そば五膳
一金 八厘  入湯一度
一金 二銭五厘  澤小児方へ手土産
一金 六厘   エ門竹一本(衣紋竹)
一金 二銭   卵二つ
一金 二十銭  櫃(ご飯を入れるひつ)
一金 四十銭  机
一金 五十五銭  白ジ木綿一反
一金 一円四十五銭  紺カスリ一反
一金 二十銭  右二反の裏ならびに肩えり
一金 七銭一厘  散髪
一金 五銭  錠
一金 六十銭  シャップ(帽子)
一金 二銭  郵便切手
一金 三銭  塵紙
一金 二銭  郵便切手
一金 十二銭  水呑大コップ一つ
一金 一銭  郵便ハガキ
一金 四銭  蕎麦五膳代
一金 十銭  薩摩芋澤氏へ
一金 十銭  スシ並びに菓子茶代
一金 五十銭  茶一斤
一金 二厘  橋代
一金 六銭  単衣一枚仕立賃
一金 二銭  半紙一状
一金 三銭  植木セキジク二鉢
一金 七銭五厘  写真六枚代ただし人物書共
一金 四銭  浅草遊歩の節生人形二度見物
一金 一銭五厘  菓子澤小児へ
一金 六厘  浅草寺賽銭
一金 九厘  カンノン札三枚
一金 一銭五厘  貝造見世物 
一金 一銭五厘  首切り見物
*首切りとはマジックショーの事だと思います。

2011年1月12日水曜日

大間マグロに救われた男

これはある日の大間マグロ一本釣り漁師の話です。

この男は私の友人(小鷹勝敏)であり同級生(七一歳)。小学校~中学校二年まで大間で一緒に学びました。
昨夜この友人より船玉祭に招待され、したたかお酒を御馳走になり、大間のマグロ漁師のすごい話を聞かされました。まあ、聞いてください。

昨年(平成22年10月21日)彼はいつもの通り、いつになく穏やかな津軽海峡にまぐろ漁のために一人で船を出しました。ふと気付くと、とも(船の後部)のテントのロープが緩んでおり、すぐにケーシング(ふなべり)に上がりロープを締める作業に取り掛かりました。

然しロープを締める為に全身の力を入れた瞬間!

ロープが切れて、彼は背中からあっという間に津軽海峡へ落ち、その瞬間、それまで握っていたマグロのシテ(道糸)を離してしまったのです。このシテは自分と船をつなぐ唯一のものですから、
彼は無我夢中で泳ぎ、シテになんとかたどりつくことができました。
彼はシテに捉まりながら、近くの僚船に大声で助けを求めましたが、何度叫んでも、大きな船のエンジン音にかき消され、どれだけ叫んでも誰も気付いてくれませんでした。

そうしている間にも、流れの速い津軽海峡のこと。どんどん自分の体は船から離れ、300mも離れそのまま45分も時間が経ってしまいました。彼の意識は朦朧とし、かすかに頭に浮かぶ家族の顔もとぎれ、とぎれとなり、いよいよ自分の最後を覚悟したとき、

防水の携帯を首から下げていることに気が付きました!

彼は気力を取り戻し、急いで漁協、消防署に電話をかけ、救助されました。
救助が来るまでの時間、彼の記憶はほとんどなかったようです。
普通の人なら、ここで暫くは漁に出るのが怖くなるところですが

大間のマグロ漁師根性は、半端じゃない!

彼は、なんと1週間後又同じ釣り場へ向い、135キロのマグロを
つりあげ又翌日も釣り上げました。これは、まぐろと船玉神と防水携帯が彼を救った
大間の夜話です。

※船玉神とは海上安全と豊漁の神様です。大間の町では1月11日、1000軒の漁師の家で厳かに神事が行われます。

2011年1月10日月曜日

斗南夜話(首なし地蔵)

明治四年廃藩置県により旧会津九代藩主容保(かたもり)公は養子喜徳(15代将軍慶喜の弟)と共に斗南藩主(息子容大3歳)を迎えに東京品川より蒸気船で太平洋を北上、函館港へ入り、その後南下の航路をとり北郡(青森県下北郡)の佐井港へ渡り、馬で田名部(むつ市)の円通寺(斗南藩仮藩庁)へ四年七月二十四日安着した。
容保(かたもり)公は、旧家臣達との別れを惜しみ一ヶ月間滞在し、八月二十五日円通寺を発し東京へ向かった。尚護衛のため新撰組三番隊、隊長斎藤 一も同行した。
翌二十六日、田名部の原野に於いて斗南藩士七名が贋札を製造した罪で明治新政府に依り斬首された。
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処刑を見に行った町民の話によると、七人共会津藩士に相応しい立派な最期だったと伝えられている。当時他藩に於いても贋札は横行していたが会津藩士だけがみせしめの為に犠牲にされた史実を今も寒い冬の夜、語り継がれています。田名部の郊外の小さな祠(ほこら)に数年前まで首の無い地蔵様が七体あったが、現在はなぜか見当たりません。どうしたのでしょうか?

2011年1月9日日曜日

費金覚記その2

一金 十二銭五厘   盛岡宿代
一金 二銭       餅
一金 一銭四厘    卵二つ
一金 一銭       盛岡博覧会切手代
一金 一銭二厘      草靴1足
一金  十八銭五厘  花巻駅より黒沢尻まで人力車四里
一金 一銭七厘    橋銭
一金 二銭       菓子
一金 七厘       舟渡
一金 八厘  昼飯の節汁一膳 
一金 十二銭五厘   郡山駅宿代 
一金 一銭六厘     同駅にてぬけ首見物代
一金 十二銭五厘    水沢駅宿代 
一金 九銭        同駅より前沢まで人力車二里あまり 
一金 一銭四厘     卵二つ 
一金 三銭        昼飯の節肴汁代 
一金 三銭        有壁駅より金成駅まで馬一里
一金 十二銭五厘   築館駅宿代 
一金 一銭二厘    卵二つ 
一金 三厘       餅一つ 
一金 二銭       餅一膳 
一金 六厘       芋二皿 
一金 六銭       昼飯代 
一金 十五銭     荒屋駅より三本木駅まで人力車二里 
一金 六十一銭   三本木駅より松島まで人力車十里あまり
一金 一銭五厘   まんじー(まんじゅう) 
一金 十五銭    松島宿代 
一金 一銭二厘  紙一状 
一金 四銭三厘  松島より塩釜駅まで舟 
一金 六銭二厘  同駅にて昼飯 
一金 一銭五厘  松島寺宝物案内 
一金 五厘     塩釜一の宮参詣賽銭
一金 八厘     卵一つ
一金 十銭     人力車二里あまり
一金 一銭五厘  車夫酒代
一金 二銭     郵便切手
一金 一銭八厘  松島にて絵図今これに記す
一金 三厘     舟渡
一金 三銭     正宗公墳墓案内銭
一金 三厘     橋代
一金 一銭五厘  筆一本
一金 六銭二厘五毛  牛肉一鍋
一金 五銭     ヨージ
一金 一銭五厘  歯磨き粉一袋
一金 三十銭   仙台宿代
一金 六銭五厘  同宿昼飯
一金 一銭     草靴一足
一金 十銭    仙台より岩沼まで馬車四里半
一金 一銭  草靴一足
一金 二銭七厘  槻木駅昼飯ならびに汁
一金 十五銭   白石村宿代
一金 二厘    小休    茶代
一金 一銭    餅四つ
一金 四厘    舟渡
一金 二厘    橋銭 
一金 一厘    小休茶代 
一金 一銭    昼飯の節汁一膳代 
一金 十五銭  福島駅宿代 
一金 八厘   同駅卵一つ 
一金 一銭   甘酒二杯 
一金 一銭   同駅にて草靴一足
一金 二銭六厘  昼飯の節汁、肴 
一金 四厘    蓮根二切 
一金 五厘    橋代 
一金 十五銭  二本松宿代 
一金 一銭   草靴一足
一金 二銭六厘  納豆餅二膳
一金 四厘    橋銭二度
一金  六厘   卵一つ
一金 八厘   昼飯の節汁一膳
一金 二厘   乞食に与える
一金 十銭   須川沢より矢吹駅まで馬二里
一金 十三銭五厘  矢吹駅宿代
一金 一銭一厘   甘酒
一金 八厘      橋銭四度
一金 五銭五厘   白坂昼飯
一金 十銭      同駅より鍋掛まで馬六里
一金 十三銭五厘  鍋掛駅宿代 
一金 一銭三厘   草靴 
一金 一銭六厘五毛  菓子 
一金 一銭      薩摩芋 
一金 七厘五毛   筍(たけのこ) 
一金 六厘      卵一つ 
一金 二十三銭   佐久山駅より阿久津駅まで人力五里二十丁ほど 
一金 一銭    車夫酒代 
一金 六厘    橋銭四度 
一金 二銭    餅 
                                          その3へ続く 
 

2011年1月7日金曜日

費金覚記(明治11年下北から東京までの道中記)その1

明治4年7月明治政府は廃藩置県を断行した為斗南藩士は全国へ散っていった。明治3年会津から岩手県北と青森県の斗南藩領へ移住した藩士と家族総数は17,300人と言われているが廃藩置県と同時に10,000人の人々が斗南藩領を去ったといわれている。その中で山川浩(大蔵)はじめ数人の藩士は東京で塾を開いた。斗南藩大属を勤めた沢二郎(全秀)もその一人であるが青森県に残った藩士の子供達は勉学の為東京の塾をめざした。この記録は私の祖父重功(11歳の時下北へ移住)が18歳の時(明治11年)、沢全秀の紹介で東京小石川の家塾、同人社へ入学のため田名部(むつ市)駅を徒歩で発し東京までの費用を克明に記録したものです。同人社は明治6年に中村敬宇が邸内に開いた家塾で慶応義塾と共に幾多の英才をだしました。

*此処で云う駅は電車の停まる駅ではなく荷馬車の引き継ぎと宿のあるところです。
*一毛の10倍が一厘。一厘の10倍が一銭。一銭の100倍が一円の時代です。
*一万円持って明治十一年の世界へタイムスリップしてみませんか?四年一ヶ月宿泊
 出来ますよ!!
以下が当家に残っている「費金覚書」の本文になります

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明治11年但し寅年也   雑  費金覚記 第四月二十五日より   木村氏
青森県管轄第六大区一小区田名部駅より東京府までの費金を左に記す

一金七厘     奥内村にて玉子一つ
一金七厘五毛  同駅にて帆立貝
一金二厘五毛  同駅漬物代
一金一銭二厘五毛 有畠村にて飴
一金十五銭   横浜駅(上北郡)宿代
一金二銭    同駅茶代
一金三十一銭二厘五毛  同駅より野辺地駅まで馬七里程
一金一銭    草靴一足
一金六厘    玉子一つ
一金十五銭   七戸駅宿代
一金一銭二厘 同駅にて玉子二つ 
一金二銭    昼食の節肴代(おかづ代)
一金一銭五厘 六戸駅にてあん取り
一金三銭三厘三毛 野辺地駅昼食の節肴
一金十五銭 五戸駅宿代
一金一銭  同駅卵代
一金三厘三毛  浅水駅にて昼食の節茶代
一金一銭  三戸駅にてウンドン(うどん)一膳
一金一銭一厘  同駅にてマンジー(饅頭)
一金一銭二厘  釜沢にて草靴一足
一金十銭     同駅より福岡駅まで馬三里
一金十五銭   福岡駅宿代
一金一円二十五銭一厘  同駅名産貝付き硯(すずり)ならびに筆、紙
一金五厘    同駅にて玉子一つ
一金一銭五厘 同駅にてまんま(ご飯)取
一金九銭    コジヤ村より中山村まで馬三里ほど
一金八厘    煎餅二つ
一金一銭二厘 北上村にて蕨餅(わらびもち)二つ
一金十五銭   沼宮内村宿代
一金二十銭   同駅より渋民村まで人力車四里
一金二銭    福岡駅にて郵便切手
一金一銭五厘 草靴一足
一金八厘    あまさけ一はい
一金四厘    煎餅
一金三厘    梅漬三つ
一金一銭    昼飯の節汁二膳
                                               その2へ つづく

2011年1月5日水曜日

藩名(斗南藩)の由来

私の曽祖父は会津藩士でした。ペリー来航後の日本は尊王攘夷(天皇を尊び外国を排除する)派の浪人達が京都の町へ集まり徳川幕府の佐幕派(外国を受け入れる)の人達との争いが激しくなってきました。そこで徳川幕府は京の町の治安を守る為、会津九代藩主松平容保公を京都守護職として上洛させました。そのときの会津藩家臣1000名の中の一人でした。その後鳥羽伏見の戦いから戊申戦争(会津戦争)へ発展し、会津藩は取り潰しになりましたが、家臣達の懸命な努力により
敗戦から一年後会津藩の再建が新政府より許可されました。その新しい藩名が(斗南藩)です。
藩主は容保(かたもり)の子供(嫡子)容大(かたはる)でした。

以下が斗南藩の藩名の由来ですが第一の説は一般的な説で、第二の説は青森県に残った子孫が代々先祖から口頭で聞かされてきた説です。

第一の説
『北斗以南皆帝州』
北斗七星より南の大地は皆天皇が住む領地である、従って我々は会津から挙藩移封されたが此処最果て陸奥の国も北斗七星より南にあるから天皇の住む国にかわりは無い。

第二の説
『南斗六星を語源にする』
南斗六星は射手座の中央にあり、射手座の番人であるが(ギリシャ神話)射手座は天帝を守る為に隣のサソリへ弓矢を向けている。これは会津藩が当時の考明天皇を守る為に薩摩、長州へ弓矢を向けているといわれている。

*第二の説について、これは140年前に先人が作った歴史と受け取ってもらいたいと思います。

2011年1月4日火曜日

2月の蕎麦会

2月中頃斗南ヶ丘(むつ市の東の丘陵地帯)で栽培された蕎麦で蕎麦会を計画中です。旧会津藩士の末裔が栽培した蕎麦です。140年の歴史をじっくりかみしめて、みようと思っております。が年々参加者が増えて今年は蕎麦粉が足りなくなるかも?嬉しい悲鳴を挙げております。会員主体ですが数名の参加者は可能かも知れません。連絡先09043192861

2011年の新年を迎えて思うこと

斗南藩ができて140年。

今年も新しい歴史の発掘に意欲を燃やしています