2011年4月27日水曜日

陸軍大将、柴五郎


上、呑香(どんこ)稲荷神社。むつ市落野沢地区。柴五郎や兄五三郎、が寝泊まりし、長男太一郎も一緒に談話した場所と思います。勧請年号は1767年。場所はむつ市の運動公園に隣接したところにあります。が史跡の案内表示が小さすぎて、余程注意して見ないと分かりません。田名部町の旧家山本家の先祖、七代市朗兵衛がこの地域の開墾を始めた頃、神信仰が深かった市朗兵衛が五穀豊穣と農民の無病息災を祈願して、建立したものと考えられている。社殿には文政八年と十年に奉納された、短歌額があり、選者に当時の海産物問屋の第九代山本理左衛門の名もしるされている。この社殿は昭和46年に建て替えられたが、旧柱3本が社殿の中に置かれ、長男太一朗が詠んだ歌が記されているが、五郎が陸軍大将を退官した後、昔を忍び落野沢を訪れた時、この柱に書かれた、太一郎の歌に感動し、三本目の柱の下に自分も記した歌である。
さすらいて身をば落の沢ずまひ
かりまくら
月日もふればさながらに
名残もおしく
かまぶせの山
はらからの
昔をここにしのぶかも
おとしの沢の水くきのあと
五郎
(斗南会津会事務局長、山本源八調べ)


上、柴五郎(明治3年下北へ移住時、12歳)と父佐多蔵、長男太一郎と妻すみ子が借家した、新田初五郎の家があった場所。呑香稲荷神社から70mの距離。住むに畳無く、むしろを敷き、建具は紙無く、米俵を縄で結び、釜臥おろしのマイナス15度の寒風をしのぎ、五郎は裸足だったと言う。食物も無く20日間犬の肉を食べたと言われている。柴五郎は、廃藩置県後、青森県庁の給仕を経て上京、つらい下僕の生活の中でも自分を見失う事なく努力を重ね、その後15歳で陸軍幼年学校へ入学、更に士官学校を経て、日本陸軍の最高峰である
陸軍大将まで登りつめた、会津武士道の極をきわめた人物の一人だと思います。昭和20年永眠
更に下方50mの距離に小荒川の渓流が今も変わらずに、清らかな音をたてて流れています。五郎一家はこの小川で水を汲み、洗いものをした事でしょう。
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4月24日斗南会津会役員会

むつ市のホテルのレストランで昼食をとり、その後総会に向けての審議が執り行われました。
主な審議の内容は前年度の収支決算と今年度の収支予算案、事業計画案、規約一部改正
等ですが、今回は東北、関東大震災の事があり、又むつ市の方からもタイミング良く、義援金の事で歩調を合わせて貰いたいとの話があり、その旨賛否を執ったところ、全員から快く賛同をえました。被災地の中でも福島県は、私達の先祖が生まれ、育ち、会津の為必死になって戦った土地でもあり、被災者の名前を見ても、私達と深い馴染みの有る名字が、数多く見受けられ、居ても立ってもいられない、気持ちです。各地域で被災され、亡くなった方々のご冥福を祈り、一日も早い復興を祈念し、全員で黙祷を捧げました。

2011年4月21日木曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳其の14

1、濃兵之者共今日迄下置候処切迫之形を以舘村より五人舟津村より五人都合十人六月十二日
  より三森峠へ出張為(させ)致候事。
1、以紙面(しめんをもって)御願上候。然ハ(しからば)此度三森、御霊櫃、両処御守衛被(られ)仰  
  付候ニ付而ハ(ついては)右両処江(え)掛巡回不致候而ハ必義不相成義付奏存候。仍而(よっ  
  て)ハ出張中乗馬壱疋(いっぴき)御貸渡被成下度(なしくだされたく)御願上候。
  右願之通り難被仰付(おおせつけられがたき)義ニも御座候ハゝ、鞍壱具御貸渡ニ相成候様、
  被仰付被下度奏願候。何れ罷出御願可申筈ニ御座候共御守衛旁々ニ付書取を以御願申上候
                                                    以上
  六月十二日                    坂部三十郎
  内藤介右衛門様

  十七回忌招魂祭追善詠歌
  はかなくも露にみたれし秋萩の散りても匂う野辺のゆふかせ
                         和歌山宇吉
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大潮

4月16日から4月19日まで、今月2度目の大潮です。引力の関係で潮位(満潮と干潮)の差が1mもあり、干潮の時は普段船が走っている海が御覧の通りです。ここは大間町割石地区で、大間崎まで800m位手前の所で、皆さん潮干狩りの最中で夢中になってアサリを掘っており、知人に声をかけても無視!!夕食の味噌汁とバター炒め、その他の料理でも考えているのかな?大間の人も結構グルメな方が多いのです。その為聞こえないのかも?
500m位がアサリ掘りに適しています。今日は多い人で、バケツ2杯位かなー。夜は満月です。
遠くに白く見える船はフェリーボートですが行き先は分かりません。

2011年4月15日金曜日

驚きの放射能撃退法

これは長崎の原爆爆心地より2㎞以内で体験した、放射線科医師、秋月辰一郎博士の記録である。博士は以前から放射能被爆の食品による排除方法を研究していた。その研究していた食品は味噌と海草であり、被爆直後、彼がとった処置は入院患者に毎日、海草の塩辛い味噌汁を与え、水と砂糖は厳禁と言う指示をした。この指示に従った患者達には、全く原爆症が出なかった。彼は後にこの体験記を発表したが、これを英訳した報告書を読んだヨーロッパ諸国の有志がチェルノブイリ原発事故の時30トンの味噌を現地に送った話は、当時注目されました。
広島原爆放射能研究所の伊藤明宏氏の研究も味噌です。彼の研究では、被爆させたマウスに味噌を与えた結果50%の放射能を排除したと言われています。然し味噌の要素の中の何が起因して効果があるのか、まだまだ研究課題があるそうです。又その後色々と食品による放射能排除効果の研究が進み、放射性ヨーソの甲状腺への蓄積を防ぐのは、昆布が一番良いと言われています。美味しい物を食べて、放射能を撃退出来れば、これに越したことはありません。此の度の大震災に遭った仙台市の友人に送って、大変喜ばれました。

2011年4月14日木曜日

船大工

我が家の屋根はFRP(強化プラスッチック)で出来ています。今から31年前店舗兼住宅の建物を建てる時、海の近くのため、鉄板と違い潮風に強い、漁船を造るのに使うFRPを使いました。錆ないで丈夫、を過信して30年間ペンキも塗らず、ホッタラカシで来ましたが、去年の暮にそのつけが、回ってきました。予想もしていなかったのですが、なんと、永い時の間にプラスチックと下地のコンパネが、剥がれて、風が吹く度、屋根がぶわぶわと、音を立て始めたのです。大工さんに御願して応急処置をし、寒い冬を越し、今日一日かかって、プラスチックの工事を二人掛かりで、終える事が出来ました。もう一人は前から、手伝いの約束をしてくれていた、例の大間まぐろ、に助けられた男、同級生の小鷹君です。彼は昨日、三陸の久慈の漁協へ日帰りで見舞に行き、夜遅く帰ったにも関わらず、今朝一番で手伝いに来てくれました。さすがは、まぐろ漁師です。原液、グラスマット、硬化剤、など扱い馴れたものです。お陰様で大助かり、手も足も洋服もどろどろ、おまけに足も腰もガタガタですが、まずは一安心です。早速温泉に入ってから、二人で落成式をやるともりでいたところ、今日は来客があると言う事で、落成式は後日になりました。ちなみに、今日4月14日は私の72歳の誕生日でした。

2011年4月10日日曜日

ばあゆ

津軽海峡フェリーばあゆ
大間~函館を1時間40分で結ぶ、距離で38㎞、ビール500缶で3本位で御到着です。下北郡の人々が北海道へ渡る唯一の近道です。その為大間の町民だけでも、函館の病院へ年間5000人以上通院している大変重要な、無くてはならない生活航路になっています。大間~函館間にフェリーが開通したのが今から50年前でした。50年間色々な想い出やドラマを積んで走り続けていますが、今のばあゆ、も高齢になり、あと2年位で寿命が来るそうです。不況、原油高の中、フェリー会社は航路の廃止まで考えたようですが、町としては非常に困る訳でーーーす。結局は県の力を、御借りして継続が決まったようで、官民一体の経営になるようです。県民、町民、観光客共々一安心と言うところかな。
現在のばあゆ(インド神話に出てくる、風の神)
全長 83,44メートル
総トン数 1,529トン
旅客定員数 470名
速力 17,5knt
積載台数 トラック15台又は乗用車60台
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2011年4月6日水曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳其の13

小川宗意医師之願書之事
1、紙面御願申上候、然者(しからば)中地方面、杉田兵庫隊江(へ)附添(つきそい)被置(おかれ)候医師、佐藤玄龍、高橋玄専、御渡ニ相成罷有候処、先達而(せんだって)杉田兵庫隊宮川表出陣之御医師壱人共召連三森峠、御霊櫃両処、御固メ之御人数、病気等有之(これあり)候節ハ、城下療治為仕難渋之上より私差配、小川定助親、宗意等申者、幼少より、医道ニ心を寄(よせ)長崎表迄罷登り、永々稽古仕居(剣術その他諸々の稽古)、医道之儀鍛錬之趣、兼而(かねて)伝承仕罷有候処、差配之地方(ちかた)一統より此節家居罷有、且つ又遠村近村ハ申迄も無之(これなく)、城下迄も療治仕居(つかまつりおり)候趣ニ御座候処、右人御人数療治ト而(とて)被仰付度趣(おおせつけられたきおもむき)手元迄申出候ニ付、尤成儀ト故、早速表迄願達仕候へ共、未タ(いまだ)御差図(おさしず)ニ不相成(あいならず)亦々(またまた)此度、鈴木式部隊上小屋迄今日出陣ニ相成候ニ付而(ついて)ハ医師共召連、跡療治可致人無之、于(ここに)今も病人等、有之候而(これありそうろうては)甚だ難渋至極成る儀ト奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)、仍而ハ(よっては)右宗意、被仰せ付被下置度(おおせつけられ、くだしおかされたく)奉願候(ねがいたてまつりそうろう)
被仰付候儀ニ御座候ハゝ(わば)、急置家元迄申遣、当人召呼相勤可申候様為仕度(当人を呼び寄せ勤めさせたく)右以書付御願申上度趣ニ御座候  以上
六月十一日     坂部三十郎
内藤介右衛門様



十七回忌招魂祭追善詠歌

だま祭る実りの庭の
       何となく紅葉ちりとふ
               ここちこそすれ
                    脇坂照正
注釈  だま(御霊)    とふ(飛ぶ)
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2011年4月2日土曜日

3月3日

今日は旧暦3月3日(大間では、さがさんにち、或いは、さがさんじ、と言う。)現在の太陽暦では
4月5日。の前日、すなわち、宵宮祭である。従って本来有るべき祭礼日を1日前倒しでやっている
ようです。この写真は大間稲荷神社で、たまたま宮司の目時さんが歩いてきました。写真を撮った時は、いなかった筈なのに?不思議です。ぼけたかな?
旧暦3月3日は弁天様(弁財天)の命日に当たり、稲荷神社初め春日神社(フェリー乗り場の近く)
鳥居崎の弁天神社は、供物や御神酒を上げ、厳かに神事を執り行います。然し弁天様の御神体は最北端から800m離れた弁天島の弁天神社にあるため、船で渡る事になりますが、それも天気次第です。海の安全と大漁を祈願し、漁業者は、なが旗休業と言って漁はお休みになります。
明日はどんな天気になる事やら。神楽の皆さんも、今日は強風だったので、気をもんでいる事でしょう。

2011年4月1日金曜日

大間原発

東北関東大震災から今日で20日すぎました。大間町は被災地にならず、今日も穏やかな津軽海峡が燦々と春の太陽に輝いています。この映像は電源開発が大間に建設中の出力138万kwの原子力発電所です。今から35年前大間町商工会が町の更なる発展を望み、大間町へ原子力発電所の誘致を請願し、幾多の困難を克服しながら、やっと一昨年から本工事に着手して現在にいたります。原子力発電所の建屋は標高12mの丘の上に建設されていて、津波の波高は4,4mとして計算されたようです。確かに地理的に見ると大間崎が太平洋の波を遮り、津軽海峡の潮の速さは、9ノットにたっすると言われております、その為か私の知る限り、チリや十勝沖、奥尻、日本海の津波も60センチ前後で終わった記憶があります、が今回は110cmと今まで最大の津波のようです。今回の津波で東京電力の福島原発の放射能漏れが連日報道されておりますが、その為か
今大間の町は、死んだように静かに成り、お通夜の様子に成っております。工事に関わるゼネコン傘下の労働者も自宅待機の為か、1000人以上の人々が町から消えてしまい、食品や飲食店、地元建設、建築の技術者、作業員、民宿、その他諸々の人々が、じっと息を呑んでいる様子が手にとるように見られ、この状態が今後も続けば、倒産する企業がかなりの数になるのではと心配です。昨日商工会の理事会の中でも、この事を危惧した発言に終始終わりましたが、早い時期に国のしっかりした判断(安心と安全)を示して貰わなければ、二次災害と言われ兼ねない現状です。乗った船は転覆しては駄目だと思う、はっきりした進路を持って、早い時期にヨットのように帆を立て直し、風に向かって進むべきだと思う。大都市のエネルギーが消えた時は、日本沈没に等しいと思います。大間原発138万キロワットは青森県内全ての一般家庭52万世帯の電力を賄えるそうです。が此の度の停電で電気の有り難さがしっかり分かり、毎日節電を心掛けています。しかし被災された大熊町、双葉町、近隣の市町村の皆様の心を思う時、前に進むと云う積極的な気持ちに抵抗がある事は確かです。