2011年6月29日水曜日

萩市の支援金に思う

私達は戊辰戦争終結以来142年の年月の流れの中、お互いに諸々の葛藤の渦の中、歴史を書いた書家の史実を半分は理解しつつ、半分は疑心暗鬼のまま、現在に至っているようにおもいます。此の度東京会津会の会報を御送付頂き、其の中に掲載されていた、萩市から会津若松市への支援金2200万に驚きました。私達会津藩士の末裔の大多数の人達は、幕末とそれ以後の隠された史実に、不信感と不満を、何時も心の中に収め乍ら、時の流れに任せて来たように思います。然し今回の東日本大震災により、萩市と会津若松市の兄弟喧嘩が、元をただせば、日本と言う家族の一員だったのだと云う
素直な気持ちで、受け止める事が出来そうな気持になりました。東北に住む一人として、先祖達が生まれ育った福島県の復興を望む気持ちは、先祖の供養にもなると思う。但し10人中、何人が同調するかは?会津の教えにある、義を重んじ、知恵と勇気、と、決断が必要かも。近い将来、姉妹都市?個人的に同感。

2011年6月28日火曜日

越後見渡勘定七分三分見立

先祖が書き残したものですが、どうしても意味不明です。何方かご存知の方は是非コメント頂ければ幸いです。
門徒宗 七分。舟通行 七分。信心参り 三分。座頭 四分。瘡毒(ヒセンカキ) 七分。
蛍 三分。上戸 七分。水損場 七分。坊主 八分。諸宗 三分。馬駄 三分。名聞参 七分。
ごぜ 六分。蚊 七分。下戸 三分。旱(ひでり)損場 三分。神職 二分。石地蔵 八分。
米 八分。漁師 三分。田畑 六分。船渡 八分。眞情 一分。朝起 二分。供養塔 二分。
大豆 二分。職人 七分。山 四分。橋場 二分。小銭 二分。薄情 九分。朝寝 八分。
放蕩 五分。神社 三分。里猫 三分。扇 五分。武士 二分。山伏 一分。三弦 九分。
鳥 八分。寺院 七分。鴎(はまねこ) 七分。炬燵 五分。百姓商人 八分。尼 九分。琴 一分。
鳶 二分。芸事の出来候人 一分。名医 五厘。金持 一分。俳諧 九分五厘。女郎 六分。
眞ノ学者 一分。むせか里 九分。藪医 九分九厘。表餝(かざり) 九分。歌人 五厘。
素人 四分。天狗 九分。

2011年6月19日日曜日

岩魚つり

今朝3時起床で岩魚(いわな)、山女(やまめ)釣りに行って来ました。近頃まとまった雨も降っていないので河川も水量が無く、魚も穴の中に潜り込んで、餌の喰いつきも悪いのではと、チョット心配でしたが、今日は日曜日、我が家の奥様にも文句は言わせません。私の渓流釣りは大きな川は敬遠し、もっぱら川幅3メートル以下のブッシュだらけの小河川に絞っています。理由は大河川はブッシュも無く、どなたでも自由に竿を振り回す事が出来る為人の入りも多く、その為魚の方が利口になりすぎて、中々餌に喰いついてくれません。その点小河川はブッシュが多いため、すぐ仕掛けを木の枝に絡めとられますので敬遠されますので、逆に魚は素直に育っています。
然し岩魚、山女の神経の過敏さは半端じゃない、川下から上流へ移動していくのですが、10m手前で川の石につまずいても、陸上の林の木の枝を踏んでポキット音をたてても、3時間は餌に喰いつきません。その為忍者スタイル、抜き足差し足、忍び足、人様には見られたく無い。なんともぶざまな格好で、目標のポイントへ向けて弓を射るのです(竿を弓の様にしぼり、餌を放つ)外れたらブッシュに絡めてその場は終わりですので、かなりの緊張感です。昔伯父に連れられて行った川へ今も通っているのです。昔は上等なテグスも無かったので馬の尻尾の毛を使った記憶があります。今日の釣果は30匹、仲良しの骨酒フアンが待っていることでしょう。

2011年6月18日土曜日

津軽海峡にそびえる絶壁

霧に霞む縫道(ぬいどう)石山、標高626メートル、隣の佐井村福浦部落から10分位、我が家から車で45分位の場所にありますが、一度も山頂に登った事はありません。何時も横目で眺めておりましたが、熊や蛇が怖くて山に近づかなかった訳では無く、山に疎い私は、山の素晴らしさを知らなかっただけの事。デジカメで山の映像を撮ってみたくなったのは、こんな素晴らしい所が下北に有ると云う話を、人伝に(県外の人から)聞いた事でした。
垂直に切り立ったこの石山は、知る人ぞ知る、絶好のロッククライミングの場所になっているそうです。又山頂の岩肌には天然記念物のオオウラヒダイワタケと言う大変貴重な植物が生えているそうですが、私は登ってもいませんので、見たことがありません。今回通りがかりに、どんなところか、軽装でも、あわよくばと思い登山道入口まで車で行ってみました。が入口から先は獣道に等しく
更に、熊避けの鈴と笛を無償で御貸し、しますと書いたボックスがあります。しかし登った人の話では、重装備は必要なくピクニック感覚でも大丈夫とのことです。但し途中ぬかるみが有る為防水の靴があればとの事でした。山頂に登ると北海道、津軽海峡は勿論、遠くは八甲田連峰と岩木山まで見えるそうで、将来的に是非下北の観光名所の一つになればと思います。言い忘れましたが、
登山道入口に着いて、車を降りると、前の崖からタヌキが一匹出てきて、私とオメ目がばったり?
タヌキ君は又今来た道をいそいそと引き返して行きました。

2011年6月17日金曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳其の17

1、六月十日稲沢源左衛門為御用爰元書記ニ而若松表へ遣し同十六日横沢御寺ハ
  帰りニ相成申候事。
1、舘村より浜路村へ引越六月十四日壱宿致浜路より横沢村御寺へ同十五日之夕方
  引移シ申候事。
八月四日
1、稲沢源左衛門義為御用若松表へ罷り登候事
1、沼山猟師源作同断ニ候事
1、安味帯刀、斎藤良之助両人、只野道辺探索相済罷り帰り候所、早速右之次第
  浜路表へ申し遣候、追い返し遣候ニ付、弐朱御渡相成候事
1、二本松木幡東筋戦争手負横沢村来帰る下宿療治致候様、御家人両人家来三日夜
  出奔致候由追々申来随而御頭様御供事之御都合も在之浜路迄御出張相成候処
  其の折横沢来帰るへ御立寄、直様病院ニ而御応椅別書名前書左之通夕刻御帰り
  相成候事
  丹羽左兵衛太夫家来、劉 又郎、佐藤久左衛門、?野川太兵衛、今江宗淋


十七回忌招魂祭追善詠歌
散り行ていゝと匂ひをますら男の
           はるに会津の山桜はな
                         橋爪 波江子

2011年6月12日日曜日

仏ヶ浦

6月11日土曜日、なぜか暖かい、この時期当地方は東風(やませ)と言う太平洋からの風が毎日のように吹きます。親潮と黒潮が青森県北部の太平洋側でぶつかり合いガス(霧)が発生し、そのガスが太陽光を遮り日中でも、うす暗くなり、その為気温がグンと下がります。それが日本海からの西風になると逆になるのですが、土曜日は気圧の関係で南から暖かい空気が流れ込み、風も南西、津軽海峡の潮も上り潮(太平洋側から日本海側へ流れる)の為ガスが発生しましたが、気温は高いので絶好の行楽日和になりました。やっと股引脱いで半そで。10歳若くなった気分で、仏ヶ浦までドライブして来ました。
なが~い階段降りた所に御地蔵さんと賽銭箱があります。
海水が、限りなく透明なので、陸上から撮ってみました。黒い丸がうにです。
神のわざ鬼の手づくり仏宇陀
           人の世ならぬ処なりけり
と大町桂月が詠んでいます。
上に有る駐車場から階段を250m位下ります、その為250m位上ります。自信のある方は歓迎
無い方はそれなりに?ちなみに、駐車場には熊出没注意の看板まであるのです。他に北限の猿も道路沿いにいっぱいいます。道路に草が散らかっていたら、近くに猿がいます。下北にこんな素晴らしい所があるのに、5月の連休期間中、観光バスがたった一台だったと、佐井村の商工会長さんが話していましたが、今年は仕方ないのかもね。

2011年6月11日土曜日

新島 襄

新島 襄
同志社大学の創立者。幕末封建制度下の日本の制約された教育を体験した彼は、維新後の日本の新しい教育を胸に、単身国禁を破りアメリカへ密航すべく、北海道函館へ向かっていたが、津軽海峡で大時化に合い、下北郡下風呂港へ避難した。時化は数日に及び、彼は下風呂の温泉で時化の収まるのを待った。下は彼の上陸を記念し風間浦村が建立した記念碑であるが、写真を撮ったつもりが、逆に新島襄に写されていました。当時新島襄もデジカメ持っていたかも??
山本八重子の事
官軍の砲弾を一日2800発も受け会津藩は降伏しましたが、落城後の城壁に残された山本八重子の詩(あすの夜は何国の誰か眺むらん、なれし御城に残す月影)父権八は鶴ヶ城攻防戦で戦死兄山本覚馬は洋式兵学、蘭学を学び、蛤御門の変では覚馬の砲術が偉大な力を発揮した。後に新島襄に協力し、その後京都府会議長を勤める。八重子は新島襄の妻になる。

2011年6月8日水曜日

平成23年度戊辰殉難者慰霊祭と総会

6月5日好天に恵まれ、斗南藩仮藩庁がおかれた、むつ市円通寺招魂之碑前において、円通寺方丈、熊谷絋全氏(斗南会津会特別顧問)以下一名の僧の元、厳かに慰霊祭が執り行われました。遠くは千葉県つくば市から参加した、会員の吉田さんを交え30数名、140年時の流れを各自の胸に、熱い時間の中に焼香を済ませました。
招魂之碑は源容大書
裏面碑文(旧会津藩士、南摩網紀)
碑文
明治戊辰之乱会津藩士奮戦各地死者数千人其忠勇節烈凛乎凌風霜矣及乱
平生者皆浴一視同仁之澤而死者幽魂独彷徨寒煙野草之間不得其所吁嗟哀哉
今茲庚子為其三十三年忌辰於是旧藩士居南部下北郡者胥膀謀建碑圓通寺
招魂祭之寺則旧藩主容大公封斗南時所館也


読み下し(徳江靖子氏)
明治戊辰之乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎(毅然として)
として風霜を凌ぐ。乱平ぐにおよび生者は皆、一視同仁(差別をつけず全ての人を同じように
愛すること)の澤(恩恵)に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙(もの寂しい)たる野草の間を
彷徨(さまよう)し、その所を得ず。ああ哀しいかな、今茲(ことし)庚子(かのえね)はその
三十三年忌辰(命日)なり。是に於いて旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て
招魂の祭りをあい謀る。この寺は即ち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。


この後斗南ヶ丘の旧藩士の墓参りを済ませ、グランドホテルにて総会が開催されました。
議案審議の主なものは今回の震災により、会津若松市の避難者の受け入れが、かなりの
数になるため、会津若松市を応援しようと言う事から、支援金の応募方法でしたが、役員会
で審議した案が全員一致で可決されました。又会則改正案では新規会員の資格について
でしたが、昨今の事情から門戸を開き、広く、本会の活動の趣旨に賛同する者を以って組織
する。になりました。総会終了後、お待ちかねの懇親会に入りました。県議の菊池氏やむつ市長
の宮下氏を交え、和気あいあい、和やかな一時を過ごしました。

2011年6月7日火曜日

海上安全延命地蔵尊大祭


大間の人々に古くから愛されて来た地蔵様です。町の人達には、じんじょ様と呼ばれています。話は今から300年前に大間沖で嵐にあって沈んだ船が積んでいたもので、乗組員は全員死亡し、嵐がやんでから村人総出で網をかけて船を引き揚げたところ、意外にも地蔵様が上がって来たので村人は喜び高台の見晴らしの良い、現在の場所に安置し、時の和尚さんにみてもらったところ、海上安全の御地蔵様だといわれ、供物等を上げて参詣するようになったそうですが、ある寒い晩、真夜中に白い着物を着た御地蔵様が(寒い寒い)と言って泣いていたので人々は今の様な堂を建立したと言われています。それ以来津軽海峡の船舶の海上安全、大漁祈願、海難遭難者、各戦争での戦死者供養、魚介類、海草供養が毎年6月23~24日近隣の方丈様方も出席され、盛大に執り行われています。祈祷、供養終了後各自持参の馳走を頂くならわしになっております。今年からみこ(いたこ)の口寄せが行われるそうですので、大間のまぐろも食べついでに本州最北端まで足をのばしてみては、如何でしょうか?又海上安全の地蔵尊は全国的にも少なく大変貴重なんだそうです

2011年6月3日金曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳其の16

浜路村百姓忠兵衛ト申者、宮川表用向有之願出候間六月十五日印鑑差出シ申候事
1、鈴木勇、高橋只之助
  右差配之者共両人兵糧方加藤平右衛門手不足ニ而不行立ニ付当分之内手伝
  相勤候、六月十二日より申聞候事。
大炮之願書
1、以書取奉願ハ然ハ当春中出張以来大炮打手之者弐拾人御渡ニ相成地方御家人差配
  被仰付候三森御守衛御渡ニ相成候ニ付而ハ早速大炮御渡ニ相成候様城下表迄相達
  候処三森峠之儀ハ大炮仕懸候場所も無之等而御渡ニ不相成不心得候ヘ共此迄其辺
  ニ仕置候処、此度御霊櫃、三森両処御守衛仕候様、頼母殿被仰付候ニ付私ニ御渡之人
  大炮打手地方御家人猟師不残ニ而、都合六拾七人ニ御座候処右人数二ツ分三拾三人
  ツツに御座候、此節殿様三代表江御駕被遊候ニ付而ハ昼夜寸志も無油断相守居り候処
  如何様ニテ矢辺も無心元既に四月三日御霊櫃戦争ニも私壱人ニ而、福良村江被差置
  大炮六文引出運送為致三代出張鈴木隊ニ而故障申候処、漸々二日ニ壱文引出其節ハ
  打ち手之者等而も御渡ニ不相成内ニ御座候、壱人ニ而御霊櫃迄運送致相仕懸左スル処
  三日早朝より戦争相始まり右大炮無之候ハゝ破軍ニも可相成警情ニ御座候得共不相伝
  ニ既ニ敵中江打込み其故頻散乱致候都合ニ御座候、依而御品不足之由伝承仕居候江ハ
  地方之者迄も手馴させ打ち手同様ニ差図致御安堵筋ニ相成候様支度志願ニ御座候処
  何卒至急ニ壱文成共城下表より運送ニ相成以御渡被下候ハゝ一統之嗜ニも相成可申
  候間御賢察被成下奉願上候  以上
  六月十七日        坂部三十郎
  内藤介右衛門様


  十七回忌招魂祭追善詠歌
  紅葉はのもろきを見ても
           君か為嵐にちりし
                花をしそおもふ
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