2011年7月30日土曜日

恐怖の綱渡り



長い篭のように見える、隣りの小さな点が人間です。大間原発送電線工事の様子ですが一番上空が111m位だそうです。良くここまで出来るものですね!僕はだめ!下から見ていて、冷や汗が出て夏なのに寒くなります。家の女房なら確実に腰が抜けます。誰にも出来ない、命掛けの仕事が出来る人間は自分の命と家族の命を賭けた人生哲学を永い時間を懸けて修得してきた事でしょう。単に生活の為だけだとは思えません。男として、日本の発展と仕事に対する誇りと充実感と満足感があることと思います。熟練の末、無我の境地に至ったとき恐怖心は消える事なのでしょうか?それにしても、すごい商売ですね!サーカスなら下にネットが張ってあるのですが。一番気になるのは彼等の給料いくらかなー。

2011年7月27日水曜日

ヘンリーシュネルの事

先日大阪の親戚よりメールがありました。内容はNHK、BSの放映の事でしたが、幕末期蝦夷地にあった庄内藩と会津藩の領地をヘンリーシュネルを介しプロシャへ売買してもよいと言う密談があったのでは?と言う話のようでしたが、私はそのテレビを見ていませんので、はっきりした内容は良く分かりませんが、NHKでそのような幕末史を放映するには、かなり確かな根拠があるのかなーと思っております。売買と並行して、蝦夷地は5000名の海兵隊をもってすれば、簡単に略奪出来ると言うような会話もあったとか、ヘンリーシュネルは会津藩では軍事顧問として平松武兵衛をなのり会津藩の武器の調達を一手に引き受け、容保公からも絶大な信頼を受けていたことは分かります。しかし、蝦夷地の領地と言うのは分かりません、北方警備の為の幕府からの預かり地なら分かるのですが、又幕府からの預かり地を藩主容保公が他国へ売り渡す事は、考えも及びません。其のことがプロシャが其の後ドイツに吸収された当時の資料の中にあるのでしょうか、会津藩は戦時中に全ての重要書類は焼却処分していますし、庄内藩の書類は手つかずの状態で保存されたままだと聞いています。この三ヶ所の機密書類が解明される事を望みます。更に私はヘンリーシュネルと弟のエドワードシュネルに疑問を以っています。兄シュネルは戊辰戦争後、居場所が無くなり、アメリカへ数家族を伴い移民団として渡りましたが、わずか2年で若松コロニーも倒産、其の後日本へ資金調達の為戻ったと言われていますが、そのごコロニーにも戻らず消息不明のまま、弟のエドワードシュネルは会津藩への武器の売買で詐欺を働いたと言われています。何時の日か会津藩の真実を証明できる日を待っていたい。

2011年7月25日月曜日

魂入れ

先日完成した仁徳天皇の見送り絵に魂が入りました。一昨日23日稲荷神社の月並祭に仁和賀山頭取の田中氏が参席し、宮司の祈祷のもと、玉串奉奠を頂き、其の後有志一同が本宿(大黒様を預かる家)へ集合、御祝いの席になりました。神前では2礼2拍1礼の後、御神酒を頂きますが、仁和賀山はサービス満点、最初1杯の御神酒が1合(180ミリリットル)である。しかも一気飲みしなければ次の番があります。一昨日当地の気温は最高で20度位、長袖のシャツで出掛けたのですが、たちまち体温が急上昇、冷やの秋田の天寿は効く、例に依ってドットコが始まりましたが今回は順番制、何度回ってきた事か。結局魂を抜かれて帰ったようです。当日は作者の藤枝氏も参加され70年昔の祭りの話で盛り上がりました。祭りまであと2週間、皆の気持ちも落ち着きません。

2011年7月19日火曜日

天妃様

大間町は漁業の町である。町民は津軽海峡の豊かな海の幸に恵まれてきたが、反面、死の恐怖を体験してきた人達も多い。その為海の守護神への信仰心は篤く、多くの神々が祀られている中でも天妃様として知られる中国の媽祖信仰が古くから行われている。
今から306年昔(元禄九年)村の長だった伊藤五左衛門が水戸の港(那珂港)より太平洋回りで勧請し、自宅の裏に祠を造り、氏神として祀ったのが始まりと言われている。









2011年7月18日月曜日

海の記念日

明治天皇は1876(明治9年)7月10日~16日まで東北地方を巡幸された。最終日は青森市であったので、15日は青森市の小学校(現在は長島小学校)に於いて天覧授業が行われました。その時私の祖父も含め下北郡から4名の小学生が招待され、世界地理の授業が行われましたが、そのうち3名が斗南藩士の子供達でした。戊辰戦争の名誉回復と新政府の威厳を東北にPRの東北巡幸だったと思いますが明治天皇に同行してきた人物がすごい!!岩倉具視(悪名高い、孝明天皇の暗殺説があるくらい)木戸孝允、大久保利通、大隈重信等でありますが、会津の反対勢力ばかりです。此の時大久保利通は三沢に日本最初の洋式牧場を開設した旧会津藩士、斗南藩少参事をやった広沢安任(やすとう)の牧場へ寄って、明治政府で腕をふるってくれるよう、御願した記録が残っています。広沢はその誘いを、俺は野にあって国家に尽すと言って断ったそうです。この年明治政府は廃刀令を発布しましたが、斗南藩では明治4年に既に帯刀を禁じていました。広沢はその後東京新宿にも牧場を開いたそうです。信じられますか?
話が長くなりましたが、一行は16日青森港を明治丸と言う貨物船に乗り、函館経由で横浜へ向かい7月20日横浜港へ入港し、以後海の記念日になったようです。現在は7月の第3月曜日です。



大間では神社で祈祷のあと、まぐろ漁船に関係者が乗って神楽を先頭に湾内を3周し其の後沖に出て更に3周したのち、海へ酒をまき、御札を海底に沈め、海の安全と大漁を祈願し御神酒を頂きますが、今日は海も静かで、御神酒を頂く時間のながいこと、ながいこと。今年の守護神は船玉神でした。昔は御札を海底に沈める時は若者がふんどし一丁で15m位の海底まで潜ったものでしたが、今は無し、ちょっとさみしい。

2011年7月16日土曜日

不許他見(秘書)其の2

文久四子年八月中於京都表御持筒之者差配ニ付仮役ニ仰付
御奏者番
原田對馬、山崎代之進、中村三郎左衛門、高橋権太夫、山川大蔵
仲ヶ間
本役 川村三助、清水傳三郎、
仮役 結城繁治、内海清次郎、木村幸蔵、松本藤右衛門

慶應元丑年四月九日京都表ニおいて公事所小役人被仰付罷下候
公事奉行
岸 源五郎、池上武助、小室金吾左衛門、
公事所勤
伊東辰之助
追々跡役
野村圓蔵、清水作右衛門、河原勝太郎、江川雄次郎、佐瀬丈之助、上田又作
追々 栗田平治、仁科勇八
小役人
早川関三郎、中田清太、木村幸蔵、野村勝之助、森 鎌之助、
御本役小役人之勤
林 清四郎、関場辰治
定雇
二瓶新吾、佐治治太郎、白井俊八、五十嵐関治朗
當座雇
美濃部辰太郎、上伊南藤吉、小林房之進、星 清八、十倉新八
公事所同心小頭
山内久助、山口辰之丞、岩田傳八
追々
河村郷八、宮下鉄五郎、安田鉄平、山崎岩次郎、浅岡三郎右衛門、佐藤市郎
同心
桜井重助、坂田新六、高山忠八、石井籐治右衛門、桜井織之助、佐藤林二郎、山下吉蔵、
井関門三郎、深田喜七、澤井嘉四郎、山口左久、大八木久八、五十嵐幸七、桜井織江、
浅岡悦太郎、火山岩吉、鈴木幾馬
間勤
猪之吉、巳之吉、籐蔵、傳之助、吉五郎
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2011年7月8日金曜日

見送り絵

大間町稲荷神社例大祭に出陣する仁和賀山の、昼間、山車(だし)の後部に飾る、布製の見送り絵です。今から40数年前に作成されたものがボロボロになった為、当時30代だった藤枝さんが、今回80代最後の力を振り絞り完成させました。家のかーちゃんも仁徳天皇のフアンで、天皇へ真珠の首飾りを献上しました。

絵は仁徳天皇です。仁徳天皇は日本最古の民主主義者と言われていますが、この絵は、ある時天皇の宮殿から村々を眺めている時、一軒の民家からも夕食の時間なのに煙が上がっていないことに気づきました。それは税金が高い為、庶民が米を買えないのだと気づき、其の後は自らの食事も控え、更に宮殿の修復等も控え、税金も下げて、毎日民家から煙の上がるのを楽しみに待っていたそうです。これは其の一筋の煙が上がった瞬間を見ている、仁徳天皇の想像図です。今の日本の政治社会と比較したら、先生方に怒られるかも知れませんが、古代日本に私欲を抑えて民衆の為に尽した天皇がいたと言う事は、現代日本の鏡だと思います。

2011年7月7日木曜日

不許他見(秘書)其の1

これは会津藩士、木村幸蔵の戊辰戦争の記録です。天保5年7月27日生、明治28年11月11日没。
戊辰戦争後明治3年、斗南へ挙藩移封、斗南藩では史生(書記)を勤めました。
木村幸蔵芸術書之覚
1、学問 一等 北素読所  鹿野留之助 門弟
1、書学 一等 同上     井関康太郎 門弟
1、鑓(やり)術 一等 徒ノ町表丁 澤野久之助 門弟
1、剣術 許 新天流 同上     千里富次郎 門弟
1、居合 許      同上      同上
1、柔術 許 水野新当流      服部栄蔵 門弟
1、算術                 斎地助作 門弟
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安政三辰年十二月二十三日陣将隊御旗附月割与力ニ被召出
日向左傳、大沼勝蔵、土子織右衛門、三人御旗奉行
仲ヶ間並び小組ノ順
松本小十郎、平田園治、渡辺直松、松川長右衛門、奥山喜右衛門、飯岡義五郎、山口勇蔵
森 惣太輔、田村千代之助、渋井源蔵、船田忠左衛門、永峯友次郎、中野留次郎、白井貞四郎、
仁科信助、坂井久吾、白石又衛、船橋捨蔵、木村幸蔵、星 清八、野村権之進、鈴木運治
同(安政)四巳年三月十五日、六石五斗御役料被下置(くだしおかれ)御徒(おかち)ニ被仰付候
(おおせつけられそうろう)
御奏者番
坂 清左衛門、木村伊三郎、北原 匡、野村左兵衛、右轉役後追々左之人別
篠田内蔵、横山傳八郎、加須屋左近、生駒主計、杉田帯刀、一瀬傳五郎、川手主税、丹羽寛次郎
白井新次郎、牧田右京、和田源之丞、和田軍兵衛、井深守之進、長野逸八、田中源之進、
仲ヶ間之順
山口孫九郎、安藤平太夫、木村初右衛門、岡左十郎、本堂幸右衛門、斎藤東之進、磯 志兵衛、
久保田丈太夫、鈴木陽助、林 源八郎、太田傳蔵、小林信吾、西村彦六、相沢義馬、林市郎左衛門、弓木豊記、進藤清蔵、相原久左衛門、山川勝之進、田村忠之助、村松八太郎、渡部熊蔵、
井形 仲、井上松八、東原政右衛門、北村十助、森 幾之助、金子管蔵、池上勝馬、沖田弥市、
服部錠次郎、鈴木義衛、本郷雅之進、満田嘉源太、村松良之進、平野権之助、松浦鉄之助、
百瀬弁吾、鈴木又五郎、木村幸蔵、原 喜八、小沢太一郎、栗田平治、早川関三郎、長坂英吾、
斎藤弥五郎、荒川留七、竹田勝太、阿部八弥、福島三平、山内亥三郎、中野栄太郎、三瓶太郎
雪下松之進、結城繁治、飯東恒治、成田卯之助、小田磯之助、高橋源次郎、沖津甚太夫、
森源太郎、大関恵之助、吉岡千賀之助、青山豊三郎、永坂源六、石川幸八、斎藤外三郎、神谷源蔵、新藤平助、江川正吾、三瓶忠助、小林半助、斎藤平三郎、遊佐源吾、山口孫四郎、松田延治
渡部定之助、杉原又次郎、山口籐次郎
江戸常詰仲ヶ間
平出善太郎、志村右兵衛、村岡鎌太郎、石岡祖右衛門、山口伊佐美
定雇  栗原喜助  守之進

2011年7月5日火曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳その18(最終回)

出奔尋書
諸津便作家来  得屋村 七郎兵衛
志賀新右衛門家来  永田村 甚兵衛
右出奔之義ニ付先々相伝候様、浜路方面より申来別紙之通
舟津加藤三郎方へ申し遣、同人より浅泊?其の後迄申聞候様
申置候事。二本松藩此間東筋戦争而負之者横沢村来帰而下宿
弐而療治致居候処右之人別家来昨夜出奔致候由ニ而、万一流論
成者見当り候ハゝ所々申上候様浜路方面より申来候所、別而関門
之場所柄も有之候故ハ一際著敷相改候様ニ被致候此段為書記
申達候 以上
尚中地方へも其表より申遣候様此段共申達候 以上
八月四日
横沢便作家来  得屋村  七郎兵衛
志賀新右衛門家来  永田村  甚兵衛


十七回忌招魂祭追善詠歌
思ひきや ともに消ゆへき道芝の 露はかりなる手向せんとは
                               森 時枝子
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2011年7月3日日曜日

飛行犬

昨日東京から、娘と一緒に孫の飛行犬が2匹新幹線はやてに乗ってやってきました。新青森駅では津軽三味線が2匹の為に大歓迎。


シュナウザーとトイプードル のミックス犬メル君と下はナンデーちゃん(トイプードル)
今朝の大間の気温は12度位。日中でも20度までいくか?な。連日30度の東京から、節電の為、夏季間だけ避暑と運動のための帰省ですが、犬も節電に協力!エライ?今朝の散歩は私が長袖一枚だったので、寒さに耐えられず途中から引き返してきました。
下、メル君の得意技
バ~ン、ゴロン、ウ~ンやられた~