2011年11月24日木曜日

不許他見(秘書)其の7

これは木村幸蔵(会津藩士、公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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1 二月朔日(一日)酒屋御陣屋において諸藩会集、之有り候。
  新発田藩、長岡藩、村上藩、村松藩、一ノ木戸陣屋詰
1 同月五日名倉殿新発田表へ御使者御用のため罷り越し候ニ付き、付き添いとして一同
  罷り越し候事。但し新発田表へ都合三度罷り越し、役屋敷あるいは下宿等におゐて、度々
  酒肴振る舞いに預かり金五百疋頂載いたしそうろう。
1 同月三日田中蔵人殿酒屋御陣屋へ御立寄、夫(それ)より加州表へ差し越され候処、道中
  六ヶ敷(むつかしく)、寺泊宿辺より戻りに相成候由。
1 同月二十一日、元京都常詰郡代同心、渡部貞助と申す者、内藤紀伊守(かみ)様三条御陣屋
  へ踏み    込み乱暴之
  所行之在り候に付き、右人頭請取の為、小頭嘉助、同心林助差し添え同所へ罷り越し、人頭
  受け取、同二十六日帰陣致し候。但し右人頭受け取の間、種々懸けあい等致し、難渋の事件 
  にて、酒屋陣屋へ夜通し飛脚等差し越し又は勅書通行に付、御領下、新保村へ罷り越し
  壱宿、尚又罷り出、懸け合いの上人頭受け取候事。

猛嵐

今日の津軽海峡は凄い。現場で観察出来れば、圧巻です。当地は津軽海峡へ突き出たまさかりの
先端に位置し、西も東も遮るものが何ひとつありません。その為普段でも風が友達のようなものですが、今日の大間は違います。今パソコンデスクにあるコップの水がこぼれそうな状況になっております、住まいが2Fの為特別サービスになっております。こんな夜はマグロ釣りの漁師達にとっても
スナックのママさんにとっても最良の日なのです。風速30メートル、波高8m位かな~
上、先方の防波堤が霞んでいます。

2011年11月23日水曜日

御礼

今年正月五日から出発した、よちよちのブログ(斗南藩士のつぶやき)の訪問者が先程11月22日PM23時に
10024人に達しました。私の発した、つぶやきに一年近くもお付き合い下さった皆様に心から感謝申し上げます。と共にこれからも続けて行かなければと言う勇気を貰いました。年齢72歳でありますが、気持ちだけは青年で?明日からも震災の被害者にも負けない位、強い希望を以って望みたいと思います。今後とも宜しく御指導、御教示の程お願い申し上げます。

2011年11月21日月曜日

利き酒会

11月18日、まだ会津十三代当主松平保定様の100年祭のほとぼりの冷めない中、むつ市太田宅に於いて、例に依り同志達による放談会兼利き酒会がありました。私は今回も皆勤賞を頂きました。以前私の発売した斗南藩と言うお酒について我が斗南会津会の家老の皆様から、醸造元は先祖達と同じ会津の酒にするべきではないか?との御指摘があり前回の放談会では一触即発の危機に?、今回当会のメンバーでもある会津の醸造元のお酒で試飲することになり、一人2000円会費の超豪勢な会食になりました。
今回の目玉は何と言っても会津の酒と下北のヒラメの刺身(当会一の美女古澤女史の差し入れ)と何時もの岩魚でしたが、会津の酒が美味しすぎて、利き酒が利きすぎ酒になってしまいました。完成の時は又先祖達もご招待したいと考えております。

2011年11月17日木曜日

柴 五郎の詩

陸軍大将柴五郎が退役後、過って飢えと寒さに耐えた、むつ市落の沢の新田氏の借家と呑香(どんこ)稲荷を訪ねた時詠まれた歌。私なりに訳してみました、ご指摘があれば是非コメント下さい。

詩  かりまくら月日もふればさながらに、名残りぞおしき、かまふせの山

訳  私が子供の頃、飢えと寒さに苦しんだ斗南の借家は、いまもそのまま残っている。
   昔眺めた、かまふせ山を見れば、過ぎ去りし過去がいとおしくなってくる。

詩  はらからの昔をここに志のぶかな、落しの沢の水くきのあと      

訳  兄五三郎がこの落しの沢の稲荷に寝泊りした時に、柱に書き残した筆跡を見ていると
    父や兄嫁や兄達の苦労が偲ばれ、やりきれない気持ちになってくる。

2011年11月11日金曜日

冬の使者

今日11日、遂に本州最北の地にも白鳥が飛んで来ました。当地は最北のわりに気温が少し高めの為、例年より少し遅いかも知れませんが、毎年この時期になると先祖達が会津から移住した最終の陸行を考えさせられます。牛の背に篭を載せ老人と子供を乗せて来た藩士達もいますが、歩きだけで来た藩士家族の困難は想像を絶します。藩札も信用無く、みぞれ降る中、お金も食糧も乏しく、着のみ着たまま、600キロ以上の凸凹道を下北までの行程は現代の人々には理解しにくい事と思いますが、その史実が残っている現在、人間死ぬ気で向かえば不可能は無いと言う、勇気をもらいます。今日は穏やかに晴れた当地方、夫婦と子供二羽の白鳥が我が家から3mの距離で平和な一時を過ごしておりました。

2011年11月7日月曜日

百日祭

十一月六日会津若松の院内御廟(代々の藩主の墓地)拝殿に於いて松平十三代当主だった松平保定様の納骨祭があり、下北より斗南士族を胸に四人の末裔が参列してまいりました。往年の保定様の想い出話し等を拝聴し又会津を守り続ける、奉賛会、会津弔霊義会、や市長を初め市議会の皆様方の会津を思う熱い気持ちが伝わってきて、ただただ感動して参りました。保定様もさぞ黄泉の国で御喜びの事と思います。
上、斗南会津会のメンバー
この後洋服を着替えて白虎隊の墓地へ焼香して、赤瓦に葺き替えた鶴ヶ城へ行ったまでは良いのですが、何故か白虎隊士の石山寅之助が、照姫様に変身してしまいました。
鶴ヶ城も赤瓦に変身
夜は若松の同志と酒宴、二泊して今朝10時の磐越西線に乗り、夕方6時かーちゃんの待つ家へ安着しました。途中郡山市に入った時ブルーシートを被せた家の多いのに驚き、心が痛みました。

2011年11月3日木曜日

戊辰戦争の後遺症

先日10月22日東京の会津会へ斗南会津会(青森県)より6名の団体で出席して参りました。戊辰戦争より140数年の時を越え、会津藩士の末裔と会津へ心を同じくする者が一同に会し、交流を交わす事の喜びを堪能して、永い間心の中にあった、もやもやの霧が少し晴れた気持ちになりました。会津から斗南へ来て私で4代目、全国の何処にどれだけ旧会津藩士の子孫がいるのか、現在の状況では、皆目検討がつかない現状だと思います。私は私設の斗南藩資料館を開いて居る為か、廃藩置県後全国へ散った同志の末裔の方々から、先祖の足跡を知りたいと言う問い合わせが、今も続いております。今回の東京会津会へ斗南会津会が参加したように、今後的に全国各地にある会津会が、横の繋がりをより密にして、情報の交換をして行く必要があるべきだと感じております。個人情報うんぬんはクソクラエだ、役場が明治の戸籍を見せない事にも腹が立ちます。これは先祖の供養にもなる事だと思う。