これは木村幸蔵(会津藩、公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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坂下方面敵の様子探索の為、仲間一同仰せ付けられ候に付き、手配りの上、箕輪文吉一同罷り出、翌朝相戻り、朝飯後運治朗に出逢い候ところ、少子(自分)の者々逢参致し旨、申し候に付き尚又雀林村下宿へ一同罷り越し候ところ、敵中田村近辺迄襲い来たり候様子にて、同所切迫致し候につき、山へかねて下宿において小屋懸け致し置き候場所立退そうろう様申し聞かせ、宿の者へ夫々(それぞれ)手当等致し立ち退かせ候上、高田表へ戻り、運治郎は隊へ罷り越し候、同夜
右兵衛殿隊始め諸隊、本郷方面出兵に相成り候ニ付き、右兵衛殿隊兵糧方仰せ付けられ、御新領方、村井左次右衛門、小林恒五郎、鈴木運治、赤塚恒之助、一同相勤め右へ矢嶋丹蔵仰せ付けられ下役の銘義外々佐藤善太郎、松田五助仰せ付けられ夜四つ時頃より高田表出起橋爪村へ出張同所において炊き出し致し庄司力之進義は器械方仰せ付けられ高田表へ居残り長谷川良蔵、佐竹網之助義は右兵衛殿隊へ付属仰せ付けられ、本郷方面へ出兵致し、然る処右兵衛殿
川向、中浜村へ引き移りに相成り候ニ付き、同九日穂谷沢村へ一泊致し、翌十日中嶋村へ罷り出で候処、小林一同、々夜小山村辺り敵の模様探索仰せ付けられ候ニ付き堤沢村へ罷り越し翌十一日朝戻り候ところ、右兵衛殿尚又、本郷村へ御引き移りに相成り候につき、十一日藤田村へ出張、兵糧炊き出し取り計らい、十二日兵糧方本郷村へ引きうつしに相成り、少子義は同所山観音堂右兵衛殿方へ罷り越し一泊翌十三日朝より十六日朝迄山手番兵仰せ付けられ候ニ付き罷り出で十六日兵糧方へ相戻り、此の日席大賄役之上に成し下され候。
2012年11月19日月曜日
2012年11月10日土曜日
外道
昨夜孫が大好きな、ハモの蒲焼を釣りに出掛けました。大間崎から北東は下波(太平洋からのうねり)があり、又前日までは日本海からの冷たい北西風が吹いて波が高かったため、テトラの入った漁港の中を狙いました。其の場所は出入り口が狭く、大型船は危険な為、船外機付きの小舟しか出入りしていないため、夜間は静かで水質も外海と変わりありません。投げて5分もしないうち、チョンチョンと小さな当りが来ましたが、又餌取りだと、放って置いたところ、静かに竿が大きく動きだしました。慌てて竿を合わせたところ、逆に敵に合わせられ、格闘が始まりました。勢いはそれ程ないけど、底力がけたたましい、ハモとも鮫とも違う感触にとまどいながら、10分程で足元まで引き寄せ、なんとかタモに入ってもらいました。過去に大切な竿を3本も無断で持って行かれた、にっくき、エイ(カスペ)の子孫でした。体重8キロ、只今煮付け魚で一杯戴いております。
有賀ちよ
先日川崎尚之助の末裔から戴いた、星亮一と戊辰戦争研究会が発刊した(新島八重を歩く)を読んでいた途中で、戊辰戦争研究会の桜井玲子氏の書かれた八重の籠城戦(2)の中で有賀ちよ子の名前が出て来て驚きました。私は有賀ちよ、と有賀ちよ子は同一人物ではないかと思っています。有賀ちよ子は籠城戦の最中、川崎(旧姓山本)八重子と二人で病院にしていた、書院に、おにぎり、を運んでいる最中、近くに被弾し二人とも怪我は無かったものの、噴煙が収まった後、顔が真っ黒に成っていて、二人ともお互いの顔を見て笑ったと、記載されておりました。私の知る有賀ちよと言う女性は、私の処から直線で100m位の処にある、阿弥陀寺と言うお寺のおばあちゃんから聞いた話ですが、おばあちゃんは今年96歳で永眠してしまいました。おばあちゃんが元気な頃の話では、おばあちゃんの実家である青森市の清願寺にいた、幼少の頃、そのお寺に有賀ちよと言うおばあちゃんがいて、白虎隊の話をしては、いつも涙を流していたそうです。有賀ちよさんは目が不自由で、青森県内のあちこちを、ほそぼそと針子をして歩いているうち、清願寺の住職に面倒をみてもらうように成ったようです。白虎隊士、有賀織之助とも関係があるのでしょうか?会津から斗南へ移住し、亡くなった時、身内の人が引き取りに来ていなければ、現在無縁仏の可能性があると思うとやりきれない気持ちです。又目が不自由になったのは、籠城戦の時の爆風が原因かも?
2012年11月8日木曜日
喜三郎
最近開店した斗南藩士の末裔、同志のお店です。下北には多数の会津関係者が居ますが、経営者は斗南会津会の若手です。何時も一緒ですので安心して飲食おまかせください。下北の鮮魚貝類の販売が本業ですが、新鮮なものを県外から来たお客様へ提供したいとの想いから、思い切ってお店を開きました。営業時間PM5~11時。
先祖が会津なので、料理も現在、こずゆ、鰊の山椒あえ、高遠そば、等検討中ですが、メインは下北の郷土料理かな?お酒は先祖と同じ会津です。そんなことより、このお店は、斗南藩、会津藩に興味のある方々の溜まり場になりつつあります。一寸寄って、熱い話に花を咲かせてみませんか?場所は旧田名部駅前通り、松木屋百貨店の近くです。喜三郎は経営者の祖父の名前です。松平容保様、容大様、斗南藩大参事、山川浩様、広沢安任様、倉澤平次右衛門様、も、近々お出でになるそうです。柴五郎様は急用のため来れ無いとのメールがありました。私は今月24日のパーティに出席予定しています。
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先祖が会津なので、料理も現在、こずゆ、鰊の山椒あえ、高遠そば、等検討中ですが、メインは下北の郷土料理かな?お酒は先祖と同じ会津です。そんなことより、このお店は、斗南藩、会津藩に興味のある方々の溜まり場になりつつあります。一寸寄って、熱い話に花を咲かせてみませんか?場所は旧田名部駅前通り、松木屋百貨店の近くです。喜三郎は経営者の祖父の名前です。松平容保様、容大様、斗南藩大参事、山川浩様、広沢安任様、倉澤平次右衛門様、も、近々お出でになるそうです。柴五郎様は急用のため来れ無いとのメールがありました。私は今月24日のパーティに出席予定しています。
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2012年11月6日火曜日
ジョーズ
昨夜の大間は久し振りのべたなぎ、早速ハモを狙って、餌は特大のイカ刺し持参で目的地へ急行!目的地はフェリー乗り場から500m先の防波堤の先端です。投げ釣りですが、生憎潮が速く東へ投げたおもりは5分もすると西の方角にあります。忍耐々一時間もたばこを吸って待ちました。釣をしない人から見たら、アホラシクテやってられないと思いながら、いつ来るか分からない感動の一瞬を待つのみです。遂に来ました!竿を立てると、凄いハモの感触です、やったーと思ったのですが、途端に軽くなりました。残念々ーーーーー。然これで諦めては釣師の恥、ガンバリました。それから1時間後、防波堤に置いた竿が急に1m程移動しました。すぐさま合わせましたが、物凄い引きで、竿が折れそうな引きで、即、ドラグを調整しながら格闘が始まりました、途中まで巻き上げると又元の距離まで持っていきます。格闘約20分、遂にその正体が浮上してきました。目が青白くらんらんと光、さすがに力尽きた様子ですが、今度は大きすぎて40cm×90cmのたもになかなか入りません、それでも根性々やっと引き揚げました。なんと10キロの大物でした。
杉の大木
11月4日斗南ヶ丘の妙見神社秋の収穫祭に行って参りました。斗南ヶ丘に入植した藩士達が唯一心の拠り所として参拝した神社ですが、拝殿の真正面にそびえる杉の大木がどうみても、樹齢140~150年に見えます。入植した当時、記念に植えた可能性大です。
2012年11月1日木曜日
奇遇
先日の夜、三八会津会副会長、大庭さんより電話があり、当資料館へ御夫婦で来館したいとの事でしたが、久し振りの会話の中で、来年のNHK大河ドラマ八重の桜になり、その中で八重の前夫、川崎尚之助が、斗南へ来ていた話で長話になりました。大庭さんの推理では、居住したのは三戸、五戸方面の可能性が強いとの事でした。確かに関係者の史実を聞くと、可能性もありました。そして翌朝私は階下のパソコンを開いた処、なんと?川崎尚之助の子孫、修氏よりメールが入っており、明後日、大間へ御邪魔したいとの事で、一瞬狐につままれた様で、暫く考えてしまいました。間違い無く川崎氏は日曜日の夕方到着。コンコンと話しは、何時尽きるとも無く続きました。
彼の一族川崎家は兵庫県の出石藩にありました。尚之助は東京で亡くなり、その時関係者が発送したものか、北海道開拓支所宛ての原本のコピーを拝見しました。更に尚之助は斗南で、柴五朗の兄、太一朗と、斗南藩の米の購入に関わる詐欺に合った?、太一朗は斗南藩の全責任を負い、獄中へ入りましたが、斗南藩では尚之助の将来を危惧し、彼の名前を抹消したのではないか?と。確かに斗南関係の名簿では、彼の名前は確認出来ません。然し尚之助の名前は東京勤慎の時の名簿にあり原本のコピーも拝見しました。太一朗との関係から推測すると、家族の窮状を助ける為に、斗南へ来た弟五三郎との関係もあったのかも?その史実も下北では確認出来ていません。そんな会話の中、兵庫県の酒造元では尚之助と言う名のお酒を発売するそうですが、八重の桜と言うお酒は会津の栄川酒造で発売されています。手元に二本おいて、八重と尚之助の味比べも良いのかも?。新島襄さんがやきもち、やくかな?
彼の一族川崎家は兵庫県の出石藩にありました。尚之助は東京で亡くなり、その時関係者が発送したものか、北海道開拓支所宛ての原本のコピーを拝見しました。更に尚之助は斗南で、柴五朗の兄、太一朗と、斗南藩の米の購入に関わる詐欺に合った?、太一朗は斗南藩の全責任を負い、獄中へ入りましたが、斗南藩では尚之助の将来を危惧し、彼の名前を抹消したのではないか?と。確かに斗南関係の名簿では、彼の名前は確認出来ません。然し尚之助の名前は東京勤慎の時の名簿にあり原本のコピーも拝見しました。太一朗との関係から推測すると、家族の窮状を助ける為に、斗南へ来た弟五三郎との関係もあったのかも?その史実も下北では確認出来ていません。そんな会話の中、兵庫県の酒造元では尚之助と言う名のお酒を発売するそうですが、八重の桜と言うお酒は会津の栄川酒造で発売されています。手元に二本おいて、八重と尚之助の味比べも良いのかも?。新島襄さんがやきもち、やくかな?
2012年10月24日水曜日
もみじ
芦名の時代、伊達正宗の猛攻に合い、正宗が会津地方を支配しましたが、その時、奥州会津久川城の城主河原田治部信盛は正宗の猛攻に屈しませんでした。その子孫河原田氏より昨夜電話があり、鶴ヶ城本丸に在るもみじの子供を送っても良いものかとの電話でした。会津を故郷とする私達にとって、喉から手も足も出る程嬉しい話で、2も3も無く飛び付きました。まずは斗南藩庁が置かれたむつ市の史跡に植えて、先祖供養をしたいと思う。
大間超まぐろ祭り
去る10月20,21日暴風の中(大間の人は驚かない)観光協会主催のマグロ祭りが開催されました。早朝より大間のまぐろを求め(見物に)、町外ナンバーの車でうまりました。100g数千円で販売されたようですが、12000人の町外の人々の胃袋にどれくらい入ったのでしょうか?自家消費かプレゼントかは知る由もない。解体されたマグロは2日間で13本(80キロ~100キロ)クラスですが、それでもマグロを求め長蛇の列が出来ていました。第一駐車場
マグロ料理も最近では様々です。まずは御夫婦で記念撮影。
何故かマグロの中に鯨がいました。ガムテープが雰囲気を盛り上げる!昔から大間の町は漁業者が多く、捕鯨船に乗った人々もいるし、寒冷地の為、熱い鯨油を食べる習慣がありました。大間の正月に欠かせない料理です。
マグロ料理も最近では様々です。まずは御夫婦で記念撮影。
何故かマグロの中に鯨がいました。ガムテープが雰囲気を盛り上げる!昔から大間の町は漁業者が多く、捕鯨船に乗った人々もいるし、寒冷地の為、熱い鯨油を食べる習慣がありました。大間の正月に欠かせない料理です。
頭は最高ドコサヘキサエンサンがたっぷりです。
これでも不満なら、小生の自慢のお店紹介します。マグロ漁師の直売店ですので、信用に関わる物は売らない事をモットーにしています。
2012年10月21日日曜日
呑香(どんこ)稲荷秋の例大祭
一昨日むつグランドホテル11階のグランブルーに於いて、会津墓参の反省会がありました。今回もグランドホテル会長兼斗南会津会顧問の菊池氏の御好意に甘んじ、会津往復の足が無料と言うことで斗南会津会は大変助かりました。斗南会津会の活動を応援してくださり、頭が下がります。御好意に対し改めて感謝申しあげます。一泊し、翌日、柴五郎の兄、五三郎が寝泊まりした、落しの沢の呑香稲荷の秋の例大祭があり、玉串料と御神酒(斗南藩)を持って参席しました。呑香稲荷は柴家との関わりも深い為、斗南会津会には、春と秋の例大祭には毎回御招待を戴きます。然、拝殿は一度建て替えをしたものの、老朽化が進み、小屋根も朽ちて、雨漏りもあるやのよし、昔は氏子も数百件あったようですが、昨日の例大祭では、私を含めて参席者は20名程でした。高齢化が進み、呑香稲荷の存在が失われつつ、有るのでしょうか?柴五郎と五三郎が柱に書いた筆跡が現在もくっきりと残っています。会津藩、斗南藩の歴史を風化させないためにも、何とかしなければと、心が痛みました。
2012年10月17日水曜日
不許他見其の17
これは木村幸蔵、会津藩士、公事所小役人の戊辰戦争の記録です。
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源栄製作寸志致し、夜中は毎夜村中取り締まりの為、忍び廻り等相勤め、猶又、9月2日南方面
戦争の模様、探索方右兵衛殿より仰せ聞かされ候に付き村井左次右衛門、同心、長谷川良蔵引き連れ、坂下七ツ時頃出立、高田村へ一泊致し翌三日関山村へ罷り越し候へば、田中源之進殿陣将兼ね出陣之有り候に付き面会の上、同処方面の戦争振り並びに手数合の次第承り同日坂下村へ着、右の次第、右兵衛殿へ申し上げ候。然る処、家内の者何れへ離散、何れへ立ち退き候や、案じ罷り在り候に付き、高田表において人頼み致し、相尋ね罷り帰り候処、橋爪組ツブラ岡村に罷り在り候旨、中川貞蔵方より清六を以って申し越し候形承知。同五日仲間頼み合いの上、坂下村、朝五ツ時頃出立、新屋敷新田村迄罷り越し候へば、高久河原方面に相当り砲声盛ん成る事に付き在所の者共々承り候へば高久河原戦争と相聞候旨申し聞き候に付き、直様坂下村に戻り候処、敵坂下村へ繰込み候に付き、右兵衛殿始め御付き添いの者並び同所居懸りの御人数纔(わずか)弐三拾人程にて、迚(とても)戦争に及候力も之無き故、一ト先(ひとまず)御代官所相纒(まとい)一同引き揚げ候処へ相戻り、夫(それ)より牛沢村にて昼、田沢村休息、酒瀬川村へ一泊、翌六日中田村に懸り高田へ罷りいで候途中、家内之者雀林村に罷り在り候旨承りに付き相尋ね候処、相分からず、無據(よんどころなく)高田表へ罷りいで、居所等も相分け候に付き村中徘徊罷り在り候節、大森貞治、中川清介等逢い候へば家内の義、中川、中村家内一同雀林村、喜右衛門と申す者方に罷り在り候間、罷り越し面会候様申し聞かし候に付き、頼み合いの上、夕刻尋ね参り面会致し、先ずもって家内一類迄無事に立ち退き候段漸く(ようやく)安堵致し、酒、肴等相給い、夫々(それぞれ)金子等配分致し、夜に入り、高田表右兵衛殿本陣に相戻り候
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源栄製作寸志致し、夜中は毎夜村中取り締まりの為、忍び廻り等相勤め、猶又、9月2日南方面
戦争の模様、探索方右兵衛殿より仰せ聞かされ候に付き村井左次右衛門、同心、長谷川良蔵引き連れ、坂下七ツ時頃出立、高田村へ一泊致し翌三日関山村へ罷り越し候へば、田中源之進殿陣将兼ね出陣之有り候に付き面会の上、同処方面の戦争振り並びに手数合の次第承り同日坂下村へ着、右の次第、右兵衛殿へ申し上げ候。然る処、家内の者何れへ離散、何れへ立ち退き候や、案じ罷り在り候に付き、高田表において人頼み致し、相尋ね罷り帰り候処、橋爪組ツブラ岡村に罷り在り候旨、中川貞蔵方より清六を以って申し越し候形承知。同五日仲間頼み合いの上、坂下村、朝五ツ時頃出立、新屋敷新田村迄罷り越し候へば、高久河原方面に相当り砲声盛ん成る事に付き在所の者共々承り候へば高久河原戦争と相聞候旨申し聞き候に付き、直様坂下村に戻り候処、敵坂下村へ繰込み候に付き、右兵衛殿始め御付き添いの者並び同所居懸りの御人数纔(わずか)弐三拾人程にて、迚(とても)戦争に及候力も之無き故、一ト先(ひとまず)御代官所相纒(まとい)一同引き揚げ候処へ相戻り、夫(それ)より牛沢村にて昼、田沢村休息、酒瀬川村へ一泊、翌六日中田村に懸り高田へ罷りいで候途中、家内之者雀林村に罷り在り候旨承りに付き相尋ね候処、相分からず、無據(よんどころなく)高田表へ罷りいで、居所等も相分け候に付き村中徘徊罷り在り候節、大森貞治、中川清介等逢い候へば家内の義、中川、中村家内一同雀林村、喜右衛門と申す者方に罷り在り候間、罷り越し面会候様申し聞かし候に付き、頼み合いの上、夕刻尋ね参り面会致し、先ずもって家内一類迄無事に立ち退き候段漸く(ようやく)安堵致し、酒、肴等相給い、夫々(それぞれ)金子等配分致し、夜に入り、高田表右兵衛殿本陣に相戻り候
2012年10月13日土曜日
大当たり
年末ジャンボなら良いのだが、それでも小生、舞茸ではないが、踊りだしたい気持ちが分かります。一昨日こっそりと例年採っている場所へ出掛けました。車で15分、現場に着いて、驚きました。
足の踏み場が無い無い状態です。熊避けの鈴と鉈をぶらさげて、合羽ずぼんに長靴履いて、ぼろシャツ羽織って行った甲斐がありました。津軽、南部方面では、さもだし、ぼりぼり、と言われている、なら茸の事、大間では何故か、はばき茸といわれている、癖の無い万能キノコです。グリドルでバター醤油が最高、次は大根おろしをいっぱい入れた味噌汁かなー。出発時間が遅かったので採り残し、今日の午前中又出掛けました。結果的にスーパーの買い物かごで山盛り3個でした。
今夜は12時より再度鱸釣に挑戦、明日はむつ市のわんこの美容室へ孫2匹連れて、待ち時間いれて、5時間の長旅です。
足の踏み場が無い無い状態です。熊避けの鈴と鉈をぶらさげて、合羽ずぼんに長靴履いて、ぼろシャツ羽織って行った甲斐がありました。津軽、南部方面では、さもだし、ぼりぼり、と言われている、なら茸の事、大間では何故か、はばき茸といわれている、癖の無い万能キノコです。グリドルでバター醤油が最高、次は大根おろしをいっぱい入れた味噌汁かなー。出発時間が遅かったので採り残し、今日の午前中又出掛けました。結果的にスーパーの買い物かごで山盛り3個でした。
今夜は12時より再度鱸釣に挑戦、明日はむつ市のわんこの美容室へ孫2匹連れて、待ち時間いれて、5時間の長旅です。
2012年10月10日水曜日
木村が鈴木を釣った
去る6日、20年もサボッタ鱸釣に挑戦してみました。最近の海岸はテトラポットと高いコンクリート壁に覆われて釣り場が無くなり、諦めていたのですが、どうしても20年前の鱸釣の醍醐味が甦り、昔良く釣った場所へ梯子を持参で出掛けましたが、まだ時間が早く、サーフィンをやっている若者がおり、暗くなるのを待ちました。私の経験から鱸は10m離れて人の顔が見える明るさでは、釣った記憶がありません。やがて、第一投ーーーーー、五投目にぱくっときました。格闘5分位かな?
5キロの大物でした。ルアーロット、道糸4号、ばけ針は企業秘密ですが、知りたい方には極秘で教えても?刺身の酒は何と言っても、磐梯山の秘水で造った斗南藩が一番です。
5キロの大物でした。ルアーロット、道糸4号、ばけ針は企業秘密ですが、知りたい方には極秘で教えても?刺身の酒は何と言っても、磐梯山の秘水で造った斗南藩が一番です。
2012年10月4日木曜日
故郷会津
9月30日斗南藩士の末裔21名が、会津墓参に出発しました。バスはグランドホテル会長兼斗南会津会顧問の菊池氏の無料提供での大名旅行!むつ市を出発して8時間の長旅でした。道中皆の頭をかすめる想いは、600キロの道程を歩いて斗南まで来た先祖達の胸の中の事だけだったと思います。私の近所に住む高畑家は、牛の背に篭を二つ掛け、子供と老人を乗せて来たそうですが、お金の無い藩士家族は、舗装道路もない、悪路を山を越え、谷を越えて、みぞれ降る中、斗南へ、たどり着きましたが、体力の無い人々は途中で倒れました。そんな140数年の過去を想いながら、初日は東山の御廟に一番近いホテルへ投宿、バイキングで食べ放題、飲み放題で、体力を付けました。あまり張り切り過ぎて先人の佐川さんの様に出陣に遅れることの無いように、私は特に?自重しました.
次の朝、御廟へ、松平家の墓。容保以後の方々が一緒に眠っています。斗南藩主容大公も。
レストランで昼食後、可愛い女性が白虎隊慰霊の剣舞を披露、拍手!!!
其の後斗南藩士が、室井若松市長を表敬訪問。左より山本、菊池、市長、木村、野崎、太田、遠藤、全員で堅い握手を交わしました。が今年は違った!市役所の職員の皆さん始め、市民の皆さんの眼光が鋭い。確かな手ごたえを感じ、会津の未来を予告していました。山本八重さん、頑張ってねーーーーー。
翌日土津(はにつ)神社を参拝、会津藩の基礎を築いた保科正之公の墓地です。
宮司さんの説明と玉串奉奠を頂きました。
最後は斗南藩酒の醸造元、栄川酒造見学で帰路につきました、けど我が家着はPM10時でした。カーチャンの土産は牛タン、私の土産は会津織のネクタイ一本、会津の教えはつつましく?
2012年9月27日木曜日
会津墓参
昨年は東日本大震災の犠牲者、被害者の為、喪に服し、現地での会食等の有る旅行は控えましたが、今年は気持を一新し、先祖の故郷、会津へ熱い想いを持つ、斗南会津会の有志21名が30日より二泊三日で会津墓参に出かけます。私は毎年のように参加しておりますが、会津藩の基礎を築いた保科正之の眠る土津神社と歴代藩主の眠る御廟、と飯盛山は、欠かさず参拝してきます
が、昨年は松平13代当主だった保定氏の納骨祭の為、会津入りしたのですが、原子力発電所事故の風評被害のためか、観光客は本当にまばらで、此処が会津か?と思うくらいでした。
風評と言う言葉は本当に恐ろしい言葉だと感じてきました。義に殉じた白虎隊は、明治以後の戦争のたびに、日本人の士気高揚の材料として、宣伝されて来た?のに。日本中の人々は、今一度
会津へ目を向けても良いと思う。
が、昨年は松平13代当主だった保定氏の納骨祭の為、会津入りしたのですが、原子力発電所事故の風評被害のためか、観光客は本当にまばらで、此処が会津か?と思うくらいでした。
風評と言う言葉は本当に恐ろしい言葉だと感じてきました。義に殉じた白虎隊は、明治以後の戦争のたびに、日本人の士気高揚の材料として、宣伝されて来た?のに。日本中の人々は、今一度
会津へ目を向けても良いと思う。
2012年9月22日土曜日
歴史秘話ヒストリア、山川捨松、再放送
19日放送のあった歴史秘話ヒストリアが9月26日(水曜)PM4:05分よりNHK総合で再放送になるそうです。
小生もちょこっと、イイ男にちょこっと、映ります。恥ずかしながら、斗南の為に頑張っています。
小生もちょこっと、イイ男にちょこっと、映ります。恥ずかしながら、斗南の為に頑張っています。
2012年9月17日月曜日
9月19日歴史ヒストリア
NHKが大山捨松のドラマをやります。ストリーの内容は全く分からないけど、捨松(戊辰戦争の頃の幼名は、さき)は戊辰戦争後、兄山川浩の知人で、函館在住のフランス人の家庭へ引き取られたと言われています。その時、さきも浩や母と一緒に斗南へ来たのでしょうか?その辺のの記録が残っていれば良いのですが、山川浩の母も斗南へ来て、容大公の日常の世話をしていますので、さき、も大間から漁船で函館へ渡った可能性もあるかも?其の後北海道開拓使の次官、黒田清隆の留学生募集により、日本で最初の5人の女性留学生の一人に選ばれ、岩倉使節団に随行してアメリカへ渡りました。10年間の留学後、日本へ帰った捨松は、西洋の文化を身につけ
語学は堪能、当時東京に出来た鹿鳴館の花でした。大山巌との恋も、鹿鳴館で生まれたようです
兄山川浩は斗南藩大参事だった事から、
大間に在る私の会津斗南藩資料館(向陽處)の事も、ちょっと放映されるみたいです?
幕末のジャンヌダルク、山本八重子が大山巌隊へ銃を乱射したシーンはあるのかなー?
興味のある方は10時から一緒にテレビを見ましょう。
語学は堪能、当時東京に出来た鹿鳴館の花でした。大山巌との恋も、鹿鳴館で生まれたようです
兄山川浩は斗南藩大参事だった事から、
大間に在る私の会津斗南藩資料館(向陽處)の事も、ちょっと放映されるみたいです?
幕末のジャンヌダルク、山本八重子が大山巌隊へ銃を乱射したシーンはあるのかなー?
興味のある方は10時から一緒にテレビを見ましょう。
2012年9月16日日曜日
白虎士中二番隊、斗南へ到着
会津高校二年生約290名が14日、むつ市へ到着、私達斗南会津会一同の出迎えを受け、直ちに会場へ、私は山本さん(会津藩次席家老、内藤介右衛門の関係者)と太田さん(飯盛山で腹を切った、白虎隊の石山寅之助の関係者)更に渡部さん、吉川さん、遠嶋さん、小島さん(共に斗南藩士の末裔)の鋭い監視のもと、40分に渡り、斗南藩の話をさせられました。馴れてないので、下手な説明を聞いた生徒さんは、さぞ、お疲れだったと思います。
其の後、引率の先生方も含め全員で昼食、壮観です。孫達との食事は最高。
其の後バス7台に分乗し、一路、斗南ヶ丘の斗南藩士の墓地へ急行、墓地は斗南ヶ丘町内会の皆さんの協力で綺麗に整備されていました。更に町内会の皆さんで、バスの誘導まで、やってもらい、感謝感激です。献花焼香後、愈々会津高校剣舞会の皆さん8名による、白虎隊士慰霊の舞が始まりました。
其の後、引率の先生方も含め全員で昼食、壮観です。孫達との食事は最高。
其の後バス7台に分乗し、一路、斗南ヶ丘の斗南藩士の墓地へ急行、墓地は斗南ヶ丘町内会の皆さんの協力で綺麗に整備されていました。更に町内会の皆さんで、バスの誘導まで、やってもらい、感謝感激です。献花焼香後、愈々会津高校剣舞会の皆さん8名による、白虎隊士慰霊の舞が始まりました。
2012年9月9日日曜日
不許他見其の16
これは木村幸蔵、会津藩士公事所小役人の戊辰戦争の記録です。
1、同日夜中三月沢口、村松様、御引き揚げ御通行ニ付き長谷村へ出張仰せつけられ、同役
良介並びに御蔵入取り立て役長沢庄助一同出張致し、然る処三月峠切迫致し、越国出兵の
御人数追々引き揚げニ相成り候に付いては、同処方面、取賄い兵糧方仰せ付けられ、追々
鈴木運治、庄司力之進、伊藤量太郎、出張致し候ニ付き五十嶋村、三月沢御関所と相分かれ
兵糧運転は勿論、人足数百人諸品運送方、精々取り計らい罷り在り候うち、石間村、戦争相
始まり同処切迫、且又赤谷口、乗っ取られ同月十六日角嶋村まで、討入られ候に付き、陣将
始め諸隊追々津川方へ引き揚げに付き、谷沢村へ引き揚げ候処、益々切迫致し候ニ付き同
所引き揚げ津川町へ罷り出候ところ、尚又谷沢村へ出張、御勘定所一同、兵糧方御用仰せつ
けられ候に付き、尚又同処迄、罷り越し候処、御用済みに付き、津川町へ相戻り候処、同二十
日、長岡藩御人数、西村々出張相成り候に付き、右の兵糧方、仰せ付けられ候ニ付き、村井、
中川、山口、鈴木、同心佐竹、退助、良介一同罷り越し、取賄罷り在り候処、御用済みに付き
尚又津川に戻り、常次郎方、下宿罷り在り候処、同二十三日若松表へ官軍乗り込み候旨
注進も之あり、右兵衛殿御登りに付き御新領役々残らず、付き添い仰せ付けられ二十四日
夜中同処出立、野村へ一泊、野沢村へ一泊同処より早打にて下野尻村御陣将方へ御用状
持参それより夜に入り塔寺村へ着の処、若松表の方、大砲の音頻りに致し、気ももめ、何とも
致すべく様これ無き形勢に相成り、然る処、右兵衛殿は坂下村へ御出張、村井、赤塚一同
舟門村方面往返し、御人数炊き出し兵糧方仰せ付けられ候ニ付き、塔寺村へ居残り炊き出し
精々取計御用済みに付き、同月晦日坂下村右兵衛殿御本陣へ罷り出、尚又御付き添い罷り
在り候内、舟渡方面へ廻しに相成り候。
1、同日夜中三月沢口、村松様、御引き揚げ御通行ニ付き長谷村へ出張仰せつけられ、同役
良介並びに御蔵入取り立て役長沢庄助一同出張致し、然る処三月峠切迫致し、越国出兵の
御人数追々引き揚げニ相成り候に付いては、同処方面、取賄い兵糧方仰せ付けられ、追々
鈴木運治、庄司力之進、伊藤量太郎、出張致し候ニ付き五十嶋村、三月沢御関所と相分かれ
兵糧運転は勿論、人足数百人諸品運送方、精々取り計らい罷り在り候うち、石間村、戦争相
始まり同処切迫、且又赤谷口、乗っ取られ同月十六日角嶋村まで、討入られ候に付き、陣将
始め諸隊追々津川方へ引き揚げに付き、谷沢村へ引き揚げ候処、益々切迫致し候ニ付き同
所引き揚げ津川町へ罷り出候ところ、尚又谷沢村へ出張、御勘定所一同、兵糧方御用仰せつ
けられ候に付き、尚又同処迄、罷り越し候処、御用済みに付き、津川町へ相戻り候処、同二十
日、長岡藩御人数、西村々出張相成り候に付き、右の兵糧方、仰せ付けられ候ニ付き、村井、
中川、山口、鈴木、同心佐竹、退助、良介一同罷り越し、取賄罷り在り候処、御用済みに付き
尚又津川に戻り、常次郎方、下宿罷り在り候処、同二十三日若松表へ官軍乗り込み候旨
注進も之あり、右兵衛殿御登りに付き御新領役々残らず、付き添い仰せ付けられ二十四日
夜中同処出立、野村へ一泊、野沢村へ一泊同処より早打にて下野尻村御陣将方へ御用状
持参それより夜に入り塔寺村へ着の処、若松表の方、大砲の音頻りに致し、気ももめ、何とも
致すべく様これ無き形勢に相成り、然る処、右兵衛殿は坂下村へ御出張、村井、赤塚一同
舟門村方面往返し、御人数炊き出し兵糧方仰せ付けられ候ニ付き、塔寺村へ居残り炊き出し
精々取計御用済みに付き、同月晦日坂下村右兵衛殿御本陣へ罷り出、尚又御付き添い罷り
在り候内、舟渡方面へ廻しに相成り候。
2012年9月5日水曜日
八重の桜
来春放映予定のNHK大河ドラマ八重の桜の主人公、山本八重子さんは、斗南へ来たか?記録が見つかりませんが、前夫川崎尚之介は斗南に来たと言う人もいます。離婚後、同志社大学の学長をやった新島譲と結婚するのですが、彼女の兄は山本覚馬であり、会津藩の砲術師範でしたので、彼女の銃の腕は、確かなものがありました。会津藩が籠城した一ヶ月間、彼女は男装し、銃で敵と戦いましたが、その時銃を乱射していた敵の隊が、薩摩の大山巌隊でした。斗南藩大参事山川浩の妹捨松はそのご、大山厳の妻に成りました。何故薩摩と会津が仲直りしたのでしょうか?男と女の関係は戊辰戦争とは違う様ですね。この件に関しては山川浩も、さすがに参ったようです。このドラマを記念して、辛口純米酒、八重の桜が発売されました。四合瓶¥1000です。
白虎隊の修学旅行
9月14日会津の若松高校がバス7台で下北へ修学旅行でむつ市へ途中下車するそうです。私達会津藩士の子孫達は、涙が出る程うれしい^^~~。熱烈歓迎!!!
145年の歳月が0に戻った気分です。7台のうちバス3台の生徒さんが、斗南探索を希望し私達斗南会津会の御老隊が道先をやることになりました。先年まで修学旅行は京都方面が主流だったようですが、今年は会津藩士の第二の故郷斗南へ舵をとってくれました。斗南で没した藩士達も不毛の台地で手を叩いていることでしょう。義に殉じた白虎隊士と、同じ年齢の若者達が、斗南を訪問し、少しでも、教科書に無い、戊辰戦争後の会津、斗南藩の歴史を吸収し、後世に伝える事を期待します。若し120人の生徒が全て歴史の道を選んでもらえたら?日本国はもっと良くなる事は間違い無し!!福島、会津ガンバレー!今晩は興奮ぎみ、会津の酒、斗南藩を一気飲みで~す。
145年の歳月が0に戻った気分です。7台のうちバス3台の生徒さんが、斗南探索を希望し私達斗南会津会の御老隊が道先をやることになりました。先年まで修学旅行は京都方面が主流だったようですが、今年は会津藩士の第二の故郷斗南へ舵をとってくれました。斗南で没した藩士達も不毛の台地で手を叩いていることでしょう。義に殉じた白虎隊士と、同じ年齢の若者達が、斗南を訪問し、少しでも、教科書に無い、戊辰戦争後の会津、斗南藩の歴史を吸収し、後世に伝える事を期待します。若し120人の生徒が全て歴史の道を選んでもらえたら?日本国はもっと良くなる事は間違い無し!!福島、会津ガンバレー!今晩は興奮ぎみ、会津の酒、斗南藩を一気飲みで~す。
2012年8月29日水曜日
斗南藩士住居跡
去る26日むつ市内での斗南会津会の役員会の後、会員の甲羽さんの案内で、自分の持ち山の中に斗南藩士の居住地らしき痕跡があるとの事で、私と太田、山本、小町屋がのこのこ付いて探索に出掛けました。気温30度以上、むつ市の斗南藩士居住の管理地敷地から、更に200mも離れた、鬱蒼とした杉林の中に、それはありました。下北(当時北郡)の田名部の丘陵地帯で、痩せた火山灰の不毛の地でしたが、会津から移住した先人達は斗南ヶ丘と命名し、200戸余りが、この地へ移り住みました。藩で建築した長屋造りの家屋でしたが、1区画100坪位だったと言われています。一番丁から五番丁まで区割りされ、入口には大きな門が在り、馬の乗り入れは禁止されていました。堀井戸も十八個あったと言われています。
これはむつ市で、以前に発見した井戸ですが、私達は更に100mも奥の方で、いままで確認されていない井戸跡を発見し、一同呆然と、無言の時が流れました。
区画の土手跡、上の土手は脈々と続き高さ、高い処で1m、下は土手幅1,2mあります。
会津からこの地へ移住した先人達の143年の歴史を目の当たりにしました。刀しか持った事のない会津のもののふ(武士)達の心を想う時、合掌せずにはいられません。
これはむつ市で、以前に発見した井戸ですが、私達は更に100mも奥の方で、いままで確認されていない井戸跡を発見し、一同呆然と、無言の時が流れました。
区画の土手跡、上の土手は脈々と続き高さ、高い処で1m、下は土手幅1,2mあります。
会津からこの地へ移住した先人達の143年の歴史を目の当たりにしました。刀しか持った事のない会津のもののふ(武士)達の心を想う時、合掌せずにはいられません。
2012年8月15日水曜日
ブルーマリンフェスティバル
大間の夏を送る最大のイベントです。町主体で各団体、会社、個人事業主が一丸となって盛り上がります。朝から船競争、歌謡ショー、まぐろ解体ショー、ヨサコイソーラン、夜は秋田大曲の花火師に因る花火ショー。まぐろの無料提供にはなが~い行列が出来ます。夜の花火は、半袖にビールでは寒かった。秋は目の前です。
オ~イどこさいぐんだ~、ゴールと反対だ~。舵の無い船だから呼吸が合わないと、とんでもない方向へ行ってしまいます。
いよいよ花火開始間近、場所取りも大変な位、大間の人口、こんなにあったかな?
オ~イどこさいぐんだ~、ゴールと反対だ~。舵の無い船だから呼吸が合わないと、とんでもない方向へ行ってしまいます。
いよいよ花火開始間近、場所取りも大変な位、大間の人口、こんなにあったかな?
お盆
お盆に墓参り、寺参りは全国共通の習わしですが、大間のお盆はちょっと違います。13日から
16日まで午前と午後1日2回づつお参りします。更に夜の部は墓前で盛大に花火をやるのです。
青森から来た孫と仲良しになりました。
右隣も当家の墓石ですが、今から30年昔、不思議な事がありました。雨上がりの後、墓参して
家族全員で花火をしていると、その右隣の墓石の角が青白く燃えだし、割り箸で消そうとしても
なかなか消えませんでした。今でもその跡が10㎝位えぐられた形で残っています。
16日まで午前と午後1日2回づつお参りします。更に夜の部は墓前で盛大に花火をやるのです。
青森から来た孫と仲良しになりました。
右隣も当家の墓石ですが、今から30年昔、不思議な事がありました。雨上がりの後、墓参して
家族全員で花火をしていると、その右隣の墓石の角が青白く燃えだし、割り箸で消そうとしても
なかなか消えませんでした。今でもその跡が10㎝位えぐられた形で残っています。
2012年8月14日火曜日
平成24年大間稲荷神社例大祭
愈々待ちに待ったお祭り到来。8月8日宵宮祭、9日より町内を2泊3日で運行します。お祭りを祝うかのような夕日が素晴らしい。
最終日4車別れの時、人々へ振る舞う御神酒。
拝殿中央左が御神酒山の神様、酒が大好きで一年中赤い顔をしています。演歌も好きです。
4車神社前へ集合、拝殿の祈祷が終わるまで待ちます。
昨年に続き今年も、まぐろ漁師、山崎邸での小休止
さすがマグロ釣りの孫が書いた、お習字。
最終日最北端の弁天神社を出発。最後は4車別れ、来年の再会を約して、乱舞します。
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