2013年2月28日木曜日

ひな人形売り場

本日2月28日東奥日報夕刊を見てびっくり仰天、まぎれもなく我が孫姫が、美人の叔母ちゃまと一緒に写っていました。本当は平成22年の2月にじ~じとば~ばが買ってあげたのに、もう一個欲しいのかな~。でもじ~じとば~ばの懐も寂しいし、それで、どうしてお雛様売り場へ行ったのか、色々検索したところ、自宅のひな飾りの内裏様の男雛の手に持つ笏(しゃく)を付けるのを親が忘れたらしい?どうも碧ちゃんは、親の間違いを指摘したかったみたいです。お~い親!しっかりしろ!!

2013年2月24日日曜日

平成25,2,25、PM5

中国のゴミではない。昨日午後5時よりむつ市はねやホテルに於いて斗南会津会恒例の新粉寒蕎麦会(しんこさむそばかい)がありました。第一回目の蕎麦会が10年位前15,6人で始まったのが年々参加者も増え今年は90人を突破しました。連日寒々照りの下北斗南も、今年は八重の桜で満開御礼になり、嬉しい悲鳴です。先祖達が血の汗を流した、斗南ヶ丘で栽培された蕎麦をかみしめ140年の歴史を語り合いました。
う~ん斗南藩?八重のさくら?味比べ
市内のスナックでも数件置いてもらっているので、二次会、三次会、四次回?檀家廻りの和尚の仕事も楽じゃない。

おいおい新宮さん、教育長の話きいてますか?それより斗南の観光ガイドの方へ話しが進んでいるようですね?それでよろしーい。

2013年2月18日月曜日

平成25年大間町芸能保存会発表会

昨日2月18日、大間町海峡保養センターに於いて、大間町の芸能発表会がありました。例年通り今年も稲荷丸、仁和賀山、大正山、弁天丸へ出場依頼がありました。然し今年我が仁和賀山では昨年若者衆数人の縁者関係で不幸があり、目出度い集まりは遠慮されてしまい、集まったのは例年の半数と言う、目も当てられない有様でしたが、依頼があった以上辞退するわけにはいかない。そこで、少数精鋭、酒の力を思いっきり、お借りするわけであります。
おいおい新田くん、それ入れ過ぎだ~~~
会津の酒には、味噌でみがきにしんが一番。
 
  
 
 
町職員の津軽海峡うみなり太鼓で幕開けです。
新田君もう一杯やれば良かったのに~、ごめん?
弁天丸
キマッテルヨ、シタデチームハジョセイガツヨイ
稲荷丸の皆さんは行儀がよろしい
 
四車別れ
会場の四か所に各山車が陣取り、再会を期して、お互いを送る別れの式を行います。
会場は超満員、会場の熱気が二月の寒さを忘れさせてくれます。町長以下議員さんも御満悦
 
 
 
 

2013年2月11日月曜日

ちゃんちゃんやき

グリドルに油をひく、半身の鱒を静かに寝かせ蓋をして強で2~3分待った後、野菜と味噌だれを加え適時待つだけ、普通は鮭が主流のようですが、大間では鱒が主流です。何故か?鮭が採れないのと、鱒の値段が安すぎて商売に成らない為、漁業者の80パーセントが自家消費にしているからです。その為我々庶民の台所まで鱒が泳いで来る訳です。
結構なサイズです。2,5キログラム位かな?半身を3人ではとても食べきれません、翌日も半分!
近くでこのブログ見ている人は、即TELくれ~一緒に食べよ~。味の秘密は500年来秘伝の味噌だれです、
今日は他見を許可します。それぞれ量は適量、①みそ②酒③みりん④砂糖少々、最後にバターたっぷり、

下北の春もすぐ、八重の桜が咲いています。

2013年2月9日土曜日

寒立ベゴ

厳寒の2月、本州最北端の牧場には寒立馬ならぬ、寒立ベゴがもくもくと牧草を食べていました。
マイナス10度の世界も、たっぷり蓄えられた、霜降り肉がものともしないようです。大間の桜祭りは5月の20日過ぎですが、バーベキュウには大間の町民が競争してこの大間牛を買い求めます。
あれほど有名な大間まぐろを食べている人は一人もいません。やはり花見は焼き肉かな~、それとも
一度大間まぐろと大間牛の味比べ大会を企画してみたいな~?まずは資本金の調達方法を模索してみたい独り言でした。

2013年2月5日火曜日

斗南藩の夢

明治3年新天地をめざし、会津藩士と家族や職人合わせて17000人強が青森県へ移住してきました。最初は県南の五戸の南部藩代官所跡に藩庁をおきましたが、いろいろ調べてみると、その時点で斗南藩の上層部では、とてつもない理想郷を夢見ていたことが想像されてきます。
現在はむつ市大湊の港湾は海上自衛隊の艦船が多数停泊していますが、昔から安渡港(大湊)は天然の良港として知れれていました。斗南藩執行部は当時函館や長崎のような、国際的な貿易港を模索していたと思われます。その一が小川原湖からむつ湾迄の運河の計画がありました。当時の土木技術を見ても容易に納得出来ます。御存知の白虎隊が飯盛山へ抜けてきた洞門を流れる清水は猪苗代湖から流れて来ているからです。又尻屋崎は津軽海峡最大の難所だったため、斗南藩ではいち早く明治政府へ灯台の設置を請願しました。その為明治9年に灯台が完成しています。輸出品として、大阪城にも使用された下北ひば、当時も中国へ送られていた下北の、アワビの干物、フカヒレ、イワシの肥料等いろいろ、当時はまぐろを釣る技術も道具も無かった。若し廃藩置県が無かったら、下北も大分違っていたかもね?今日も会津から私とあまり変わらない、若いご夫婦が?北斗以南皆帝州まで、おいでになりました。感動です。