これは木村幸蔵(会津藩士小役人)の戊辰戦争の記録です。
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1、同月21日地蔵堂戦場へ小林恒五郎と交代の為罷り越し候筈の処、起里再発難義致し候旨
清介義替わりとして罷り越し呉候義に之有り
1、同月二十五日右兵衛殿三条表へお越し、それより御戻り懸け酒屋御陣屋へ御止宿に相成り
警衛の者、寄合組、若手の者二十人御用属、平野九郎右門、夜九ツ時過ぎ着、然る処、水原
表より吉岡武橘,関場松二郎、早打ちにて罷り越し候には新潟表、軍船数艘着の趣き申しきた
り候にて、二六日明け六ツ時頃、中早にて水原表へ御帰に相成り候事。
1、二十六日夜中九ツ時頃より、新潟表大砲の音相響き、米藩人出張の処、官軍上陸の上沼乗
より発砲、大戦争に相成り候処、翌二十七日朝水原表に相当り火の手相見え候に付いては
容易ならず形勢と相成り、酒屋御陣屋諸役々残らず立退、角瀬須村より新津へ相懸り、御
新領蒲原郡大関村において昼、それより同郡一本杉村へ一泊、馬下村へ相懸り草水村へ
引き揚げ候へば、水原詰右兵衛殿始め役々並びに御人数等同所まで引き揚げ、赤坂山胸壁
築立に付き酒屋詰役々の義残らず石間村迄引き揚げ、人足才判等精々取り計らい夜中の義
馬下、小松両村渡し場番兵仰せ付けられ相勤め罷り在り候処、八月朔日赤坂山へ官軍襲来
り、同処乗っ取られ候につき石間村へ残らず引き揚げに相成り候処、役場内の者共、土工兵
一同寶正山岸損キへ罷り出候様、仰せ付けられ出兵致し候。
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