2012年11月19日月曜日

不許他見その18

これは木村幸蔵(会津藩、公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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坂下方面敵の様子探索の為、仲間一同仰せ付けられ候に付き、手配りの上、箕輪文吉一同罷り出、翌朝相戻り、朝飯後運治朗に出逢い候ところ、少子(自分)の者々逢参致し旨、申し候に付き尚又雀林村下宿へ一同罷り越し候ところ、敵中田村近辺迄襲い来たり候様子にて、同所切迫致し候につき、山へかねて下宿において小屋懸け致し置き候場所立退そうろう様申し聞かせ、宿の者へ夫々(それぞれ)手当等致し立ち退かせ候上、高田表へ戻り、運治郎は隊へ罷り越し候、同夜
右兵衛殿隊始め諸隊、本郷方面出兵に相成り候ニ付き、右兵衛殿隊兵糧方仰せ付けられ、御新領方、村井左次右衛門、小林恒五郎、鈴木運治、赤塚恒之助、一同相勤め右へ矢嶋丹蔵仰せ付けられ下役の銘義外々佐藤善太郎、松田五助仰せ付けられ夜四つ時頃より高田表出起橋爪村へ出張同所において炊き出し致し庄司力之進義は器械方仰せ付けられ高田表へ居残り長谷川良蔵、佐竹網之助義は右兵衛殿隊へ付属仰せ付けられ、本郷方面へ出兵致し、然る処右兵衛殿
川向、中浜村へ引き移りに相成り候ニ付き、同九日穂谷沢村へ一泊致し、翌十日中嶋村へ罷り出で候処、小林一同、々夜小山村辺り敵の模様探索仰せ付けられ候ニ付き堤沢村へ罷り越し翌十一日朝戻り候ところ、右兵衛殿尚又、本郷村へ御引き移りに相成り候につき、十一日藤田村へ出張、兵糧炊き出し取り計らい、十二日兵糧方本郷村へ引きうつしに相成り、少子義は同所山観音堂右兵衛殿方へ罷り越し一泊翌十三日朝より十六日朝迄山手番兵仰せ付けられ候ニ付き罷り出で十六日兵糧方へ相戻り、此の日席大賄役之上に成し下され候。

2012年11月10日土曜日

外道

昨夜孫が大好きな、ハモの蒲焼を釣りに出掛けました。大間崎から北東は下波(太平洋からのうねり)があり、又前日までは日本海からの冷たい北西風が吹いて波が高かったため、テトラの入った漁港の中を狙いました。其の場所は出入り口が狭く、大型船は危険な為、船外機付きの小舟しか出入りしていないため、夜間は静かで水質も外海と変わりありません。投げて5分もしないうち、チョンチョンと小さな当りが来ましたが、又餌取りだと、放って置いたところ、静かに竿が大きく動きだしました。慌てて竿を合わせたところ、逆に敵に合わせられ、格闘が始まりました。勢いはそれ程ないけど、底力がけたたましい、ハモとも鮫とも違う感触にとまどいながら、10分程で足元まで引き寄せ、なんとかタモに入ってもらいました。過去に大切な竿を3本も無断で持って行かれた、にっくき、エイ(カスペ)の子孫でした。体重8キロ、只今煮付け魚で一杯戴いております。

有賀ちよ

先日川崎尚之助の末裔から戴いた、星亮一と戊辰戦争研究会が発刊した(新島八重を歩く)を読んでいた途中で、戊辰戦争研究会の桜井玲子氏の書かれた八重の籠城戦(2)の中で有賀ちよ子の名前が出て来て驚きました。私は有賀ちよ、と有賀ちよ子は同一人物ではないかと思っています。有賀ちよ子は籠城戦の最中、川崎(旧姓山本)八重子と二人で病院にしていた、書院に、おにぎり、を運んでいる最中、近くに被弾し二人とも怪我は無かったものの、噴煙が収まった後、顔が真っ黒に成っていて、二人ともお互いの顔を見て笑ったと、記載されておりました。私の知る有賀ちよと言う女性は、私の処から直線で100m位の処にある、阿弥陀寺と言うお寺のおばあちゃんから聞いた話ですが、おばあちゃんは今年96歳で永眠してしまいました。おばあちゃんが元気な頃の話では、おばあちゃんの実家である青森市の清願寺にいた、幼少の頃、そのお寺に有賀ちよと言うおばあちゃんがいて、白虎隊の話をしては、いつも涙を流していたそうです。有賀ちよさんは目が不自由で、青森県内のあちこちを、ほそぼそと針子をして歩いているうち、清願寺の住職に面倒をみてもらうように成ったようです。白虎隊士、有賀織之助とも関係があるのでしょうか?会津から斗南へ移住し、亡くなった時、身内の人が引き取りに来ていなければ、現在無縁仏の可能性があると思うとやりきれない気持ちです。又目が不自由になったのは、籠城戦の時の爆風が原因かも?

2012年11月8日木曜日

喜三郎

最近開店した斗南藩士の末裔、同志のお店です。下北には多数の会津関係者が居ますが、経営者は斗南会津会の若手です。何時も一緒ですので安心して飲食おまかせください。下北の鮮魚貝類の販売が本業ですが、新鮮なものを県外から来たお客様へ提供したいとの想いから、思い切ってお店を開きました。営業時間PM5~11時。
先祖が会津なので、料理も現在、こずゆ、鰊の山椒あえ、高遠そば、等検討中ですが、メインは下北の郷土料理かな?お酒は先祖と同じ会津です。そんなことより、このお店は、斗南藩、会津藩に興味のある方々の溜まり場になりつつあります。一寸寄って、熱い話に花を咲かせてみませんか?場所は旧田名部駅前通り、松木屋百貨店の近くです。喜三郎は経営者の祖父の名前です。松平容保様、容大様、斗南藩大参事、山川浩様、広沢安任様、倉澤平次右衛門様、も、近々お出でになるそうです。柴五郎様は急用のため来れ無いとのメールがありました。私は今月24日のパーティに出席予定しています。


2012年11月6日火曜日

ジョーズ

昨夜の大間は久し振りのべたなぎ、早速ハモを狙って、餌は特大のイカ刺し持参で目的地へ急行!目的地はフェリー乗り場から500m先の防波堤の先端です。投げ釣りですが、生憎潮が速く東へ投げたおもりは5分もすると西の方角にあります。忍耐々一時間もたばこを吸って待ちました。釣をしない人から見たら、アホラシクテやってられないと思いながら、いつ来るか分からない感動の一瞬を待つのみです。遂に来ました!竿を立てると、凄いハモの感触です、やったーと思ったのですが、途端に軽くなりました。残念々ーーーーー。然これで諦めては釣師の恥、ガンバリました。それから1時間後、防波堤に置いた竿が急に1m程移動しました。すぐさま合わせましたが、物凄い引きで、竿が折れそうな引きで、即、ドラグを調整しながら格闘が始まりました、途中まで巻き上げると又元の距離まで持っていきます。格闘約20分、遂にその正体が浮上してきました。目が青白くらんらんと光、さすがに力尽きた様子ですが、今度は大きすぎて40cm×90cmのたもになかなか入りません、それでも根性々やっと引き揚げました。なんと10キロの大物でした。

杉の大木

11月4日斗南ヶ丘の妙見神社秋の収穫祭に行って参りました。斗南ヶ丘に入植した藩士達が唯一心の拠り所として参拝した神社ですが、拝殿の真正面にそびえる杉の大木がどうみても、樹齢140~150年に見えます。入植した当時、記念に植えた可能性大です。

2012年11月1日木曜日

奇遇

先日の夜、三八会津会副会長、大庭さんより電話があり、当資料館へ御夫婦で来館したいとの事でしたが、久し振りの会話の中で、来年のNHK大河ドラマ八重の桜になり、その中で八重の前夫、川崎尚之助が、斗南へ来ていた話で長話になりました。大庭さんの推理では、居住したのは三戸、五戸方面の可能性が強いとの事でした。確かに関係者の史実を聞くと、可能性もありました。そして翌朝私は階下のパソコンを開いた処、なんと?川崎尚之助の子孫、修氏よりメールが入っており、明後日、大間へ御邪魔したいとの事で、一瞬狐につままれた様で、暫く考えてしまいました。間違い無く川崎氏は日曜日の夕方到着。コンコンと話しは、何時尽きるとも無く続きました。
彼の一族川崎家は兵庫県の出石藩にありました。尚之助は東京で亡くなり、その時関係者が発送したものか、北海道開拓支所宛ての原本のコピーを拝見しました。更に尚之助は斗南で、柴五朗の兄、太一朗と、斗南藩の米の購入に関わる詐欺に合った?、太一朗は斗南藩の全責任を負い、獄中へ入りましたが、斗南藩では尚之助の将来を危惧し、彼の名前を抹消したのではないか?と。確かに斗南関係の名簿では、彼の名前は確認出来ません。然し尚之助の名前は東京勤慎の時の名簿にあり原本のコピーも拝見しました。太一朗との関係から推測すると、家族の窮状を助ける為に、斗南へ来た弟五三郎との関係もあったのかも?その史実も下北では確認出来ていません。そんな会話の中、兵庫県の酒造元では尚之助と言う名のお酒を発売するそうですが、八重の桜と言うお酒は会津の栄川酒造で発売されています。手元に二本おいて、八重と尚之助の味比べも良いのかも?。新島襄さんがやきもち、やくかな?