2011年12月17日土曜日

不許他見(秘書)その8

これは木村幸蔵(会津藩士公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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1、越国弥(いよいよ)切迫致し候に付き、3月19日、中川、鈴木、佐藤家内共一同若松表へ差起
  候事。但し道中の義、新道相かけ、御領下村々、村継致し呉そうろう由、同22日滞り無く若松
  着。
1、勅使官軍等、高田迄罷り越し候よしに付き、津川へ出張罷り在り候、木村忠右衛門隊3月19
  日酒屋御陣屋へ出張に相成り翌20日、井深隊一同、弥彦宿観音寺村へ出張に相成り候に
  付き役場内中川清介、木村幸蔵、鈴木運治、古川保之助、佐藤勇吾、小池林助、物江勝衛、
  宮下且之助、加藤右衛門、右両隊兵糧方仰せ付けられ一同出張いたし、兵糧、弾薬、兵器
  運転については、数百人の人足材料、精々尽力致し20日寺泊へ木村隊一同一泊致し、
  井深隊の義は観音寺村へ出張に相成り翌21日、木村隊共々残らず観音寺村へ出張に相成
  候処、役場内の者共同所に一同罷り在り候ては、用便にも相立ち兼ね候につき御領下蒲原郡
  堺の村と観音寺村と相分かれ同所裕次郎宅に佐藤勇吾一同引き通し罷り在り。
  堺の村は中川、鈴木、保川、加藤同心共々の義は替わり合い相勤め候。
  然る処井深殿より高田表の形勢、飛札を以って相伺され候処、勅使の義、江戸方へ向かいに
  相成候由にて下越後へ急に向かい候様子も相見えず酒屋御陣屋之義、御手薄に付き同月
  27日木村隊は酒屋表へ帰陣、井深隊の義は同日小千谷表へ出張に相成候に付き尚又同所
  迄一同、同行致し、同所御陣屋詰合へ相譲り4月2日同所より乗船にて出起、三条泊まり翌
  3日尚又乗船にて酒屋表着致し候事。

2011年12月12日月曜日

勉強会

昨日11日、日曜日、むつ市子供会連合会主催で斗南藩の歴史を探る、今年3回目の勉強会があり熱心なむつ市民が23名程集まりました。今回は大湊の中央公民館よりバスで出発し、斗南藩の仮藩庁になった円通寺へ向かいました。連合会側から3名と斗南会津会から3名案内役として付き添い、あいにくの吹雪模様の中、寒さとトイレを我慢しながら、頑張ってきました。その努力の甲斐もあり今回もかなりの成果があったように感じ、満足して帰宅しました。一昨年斗南藩立藩140年祭をやって以来むつ市民の反応が郷土の歴史(斗南藩の)に少しづつ、燃え移ってきているように感じ、大変嬉しく思います。本堂で説明の後、藩士の墓参をしましたが、まだ私達に知られていない孤独な藩士の墓碑が下北には眠っています。

2011年12月3日土曜日

大黒様の命日

12月1日は仁和賀山(祭りの山車)の守護神、大黒様の命日と言われ、昔から毎年、盛大に祝宴が執り行われて来ました。然し不思議なことに、誰も命日が12月1日で、何年前に何処でどんな病気か事故で亡くなったのか?一体神様が死んで良いものかとの質問に答えられる人はいません。大黒様が日本へ来てから出来た迷信なのでしょうか、それでも毎年祈祷師を呼んで供養をする訳です。今年は祈祷師の側に不幸があり来れませんでしたが、さすがに財力と厨房の神様と言われるだけあって、凄い御馳走の山です。
地元産マグロと鮑のとっちるが最高でした。若い衆は多分午前様かな?
中乗りの子供達も熱演、いよいよ会場は盛り上がります。
古老道先のどっとこで最高潮にたっします。
来年はどっとこ(鰊場のキヤリ)の源流を探る観光も検討中です。北海道余市方面が一番有望と言われています。

2011年12月2日金曜日

絶景、日本海と太平洋が同時に見える。

本州最北端大間町の西吹付(にしふつけ)山の展望台から津軽海峡と北海道の連山を望めば大パノラマになります。デジカメではその素晴らしさは表現出来ません。やはり肉眼が一番です。
左遠方の連山が津軽半島、右遠方の連山が北海道、中央の水平線が日本海です。
左上の山が北海道恵山岬、右に広がる水平線が太平洋です。
向かいの牛が臥せた様な山が函館山、その右に函館の市街が広がります。この展望は9月以降に限ります。春から夏は太平洋からのガスで何も見えません。観光の際は御用心を!

龍神様

10月18日福蔵寺管理による、八大龍王殿(一般的に龍神様と呼ばれています)が町有志により3ヶ年の準備期間を経て落成しました。御神体は1860年(万延元年)、日本中が黒船問題でわいわい騒いでいた頃大畑湊や大間湊の網元や廻船問屋により建立されました。海上安全、大漁祈願の殿堂として大間の海を見守っています。

天井に描かれた龍神
下は右大臣、御神体へ向かって左になります。右側に左大臣があります。

2011年11月24日木曜日

不許他見(秘書)其の7

これは木村幸蔵(会津藩士、公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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1 二月朔日(一日)酒屋御陣屋において諸藩会集、之有り候。
  新発田藩、長岡藩、村上藩、村松藩、一ノ木戸陣屋詰
1 同月五日名倉殿新発田表へ御使者御用のため罷り越し候ニ付き、付き添いとして一同
  罷り越し候事。但し新発田表へ都合三度罷り越し、役屋敷あるいは下宿等におゐて、度々
  酒肴振る舞いに預かり金五百疋頂載いたしそうろう。
1 同月三日田中蔵人殿酒屋御陣屋へ御立寄、夫(それ)より加州表へ差し越され候処、道中
  六ヶ敷(むつかしく)、寺泊宿辺より戻りに相成候由。
1 同月二十一日、元京都常詰郡代同心、渡部貞助と申す者、内藤紀伊守(かみ)様三条御陣屋
  へ踏み    込み乱暴之
  所行之在り候に付き、右人頭請取の為、小頭嘉助、同心林助差し添え同所へ罷り越し、人頭
  受け取、同二十六日帰陣致し候。但し右人頭受け取の間、種々懸けあい等致し、難渋の事件 
  にて、酒屋陣屋へ夜通し飛脚等差し越し又は勅書通行に付、御領下、新保村へ罷り越し
  壱宿、尚又罷り出、懸け合いの上人頭受け取候事。

猛嵐

今日の津軽海峡は凄い。現場で観察出来れば、圧巻です。当地は津軽海峡へ突き出たまさかりの
先端に位置し、西も東も遮るものが何ひとつありません。その為普段でも風が友達のようなものですが、今日の大間は違います。今パソコンデスクにあるコップの水がこぼれそうな状況になっております、住まいが2Fの為特別サービスになっております。こんな夜はマグロ釣りの漁師達にとっても
スナックのママさんにとっても最良の日なのです。風速30メートル、波高8m位かな~
上、先方の防波堤が霞んでいます。

2011年11月23日水曜日

御礼

今年正月五日から出発した、よちよちのブログ(斗南藩士のつぶやき)の訪問者が先程11月22日PM23時に
10024人に達しました。私の発した、つぶやきに一年近くもお付き合い下さった皆様に心から感謝申し上げます。と共にこれからも続けて行かなければと言う勇気を貰いました。年齢72歳でありますが、気持ちだけは青年で?明日からも震災の被害者にも負けない位、強い希望を以って望みたいと思います。今後とも宜しく御指導、御教示の程お願い申し上げます。

2011年11月21日月曜日

利き酒会

11月18日、まだ会津十三代当主松平保定様の100年祭のほとぼりの冷めない中、むつ市太田宅に於いて、例に依り同志達による放談会兼利き酒会がありました。私は今回も皆勤賞を頂きました。以前私の発売した斗南藩と言うお酒について我が斗南会津会の家老の皆様から、醸造元は先祖達と同じ会津の酒にするべきではないか?との御指摘があり前回の放談会では一触即発の危機に?、今回当会のメンバーでもある会津の醸造元のお酒で試飲することになり、一人2000円会費の超豪勢な会食になりました。
今回の目玉は何と言っても会津の酒と下北のヒラメの刺身(当会一の美女古澤女史の差し入れ)と何時もの岩魚でしたが、会津の酒が美味しすぎて、利き酒が利きすぎ酒になってしまいました。完成の時は又先祖達もご招待したいと考えております。

2011年11月17日木曜日

柴 五郎の詩

陸軍大将柴五郎が退役後、過って飢えと寒さに耐えた、むつ市落の沢の新田氏の借家と呑香(どんこ)稲荷を訪ねた時詠まれた歌。私なりに訳してみました、ご指摘があれば是非コメント下さい。

詩  かりまくら月日もふればさながらに、名残りぞおしき、かまふせの山

訳  私が子供の頃、飢えと寒さに苦しんだ斗南の借家は、いまもそのまま残っている。
   昔眺めた、かまふせ山を見れば、過ぎ去りし過去がいとおしくなってくる。

詩  はらからの昔をここに志のぶかな、落しの沢の水くきのあと      

訳  兄五三郎がこの落しの沢の稲荷に寝泊りした時に、柱に書き残した筆跡を見ていると
    父や兄嫁や兄達の苦労が偲ばれ、やりきれない気持ちになってくる。

2011年11月11日金曜日

冬の使者

今日11日、遂に本州最北の地にも白鳥が飛んで来ました。当地は最北のわりに気温が少し高めの為、例年より少し遅いかも知れませんが、毎年この時期になると先祖達が会津から移住した最終の陸行を考えさせられます。牛の背に篭を載せ老人と子供を乗せて来た藩士達もいますが、歩きだけで来た藩士家族の困難は想像を絶します。藩札も信用無く、みぞれ降る中、お金も食糧も乏しく、着のみ着たまま、600キロ以上の凸凹道を下北までの行程は現代の人々には理解しにくい事と思いますが、その史実が残っている現在、人間死ぬ気で向かえば不可能は無いと言う、勇気をもらいます。今日は穏やかに晴れた当地方、夫婦と子供二羽の白鳥が我が家から3mの距離で平和な一時を過ごしておりました。

2011年11月7日月曜日

百日祭

十一月六日会津若松の院内御廟(代々の藩主の墓地)拝殿に於いて松平十三代当主だった松平保定様の納骨祭があり、下北より斗南士族を胸に四人の末裔が参列してまいりました。往年の保定様の想い出話し等を拝聴し又会津を守り続ける、奉賛会、会津弔霊義会、や市長を初め市議会の皆様方の会津を思う熱い気持ちが伝わってきて、ただただ感動して参りました。保定様もさぞ黄泉の国で御喜びの事と思います。
上、斗南会津会のメンバー
この後洋服を着替えて白虎隊の墓地へ焼香して、赤瓦に葺き替えた鶴ヶ城へ行ったまでは良いのですが、何故か白虎隊士の石山寅之助が、照姫様に変身してしまいました。
鶴ヶ城も赤瓦に変身
夜は若松の同志と酒宴、二泊して今朝10時の磐越西線に乗り、夕方6時かーちゃんの待つ家へ安着しました。途中郡山市に入った時ブルーシートを被せた家の多いのに驚き、心が痛みました。

2011年11月3日木曜日

戊辰戦争の後遺症

先日10月22日東京の会津会へ斗南会津会(青森県)より6名の団体で出席して参りました。戊辰戦争より140数年の時を越え、会津藩士の末裔と会津へ心を同じくする者が一同に会し、交流を交わす事の喜びを堪能して、永い間心の中にあった、もやもやの霧が少し晴れた気持ちになりました。会津から斗南へ来て私で4代目、全国の何処にどれだけ旧会津藩士の子孫がいるのか、現在の状況では、皆目検討がつかない現状だと思います。私は私設の斗南藩資料館を開いて居る為か、廃藩置県後全国へ散った同志の末裔の方々から、先祖の足跡を知りたいと言う問い合わせが、今も続いております。今回の東京会津会へ斗南会津会が参加したように、今後的に全国各地にある会津会が、横の繋がりをより密にして、情報の交換をして行く必要があるべきだと感じております。個人情報うんぬんはクソクラエだ、役場が明治の戸籍を見せない事にも腹が立ちます。これは先祖の供養にもなる事だと思う。

2011年10月30日日曜日

大物

初秋に釣り上げた岩魚(いわな)、永年渓流釣りをしているが、このサイズは20年位前に一度あったかな~。全長40cmの超大物でした。ハリス0,8号で、はらはらしどうしでしたが、やっとの思いで穴から引き揚げました。冷凍していたものを昨夜東京住まいの娘が来てかーちゃんと三人でタイラゲました。グリドルで奥戸(おこっぺ)の芋とバターで塩、胡椒が最高です。
来年も神様お願いします。

2011年10月25日火曜日

会津会総会

10月22日会津会の総会がありました。上野の精養軒で、東京、会津、東京近辺、そして青森県の斗南からも140年の時を越えて、斗南会津会の会員6名が会員となって参加してきました。以前から会員になって参加している奥川様を除いて5名ですが、私達は会津へ同じ熱い思いを持つ人々と会える事を今年の春から心待ちにしておりましたが、今回それが実現されて、大変感動しました。総会終了後の懇親会では、皆同じ同志の気持ちに戻り、話が弾みます。益々強くなる先祖への思い、戊辰戦争はまだ終わっていないのかな~。今日現在興奮が続いています。
会津藩の戦争責任を唯一人で背負い自刃した萱野権兵衛の墓
花と線香を立てお祈りしましたが、何方がお祈りしたのかそれ以前の痕跡もありました。

14代当主松平保久氏と

斗南会津会の重臣
東京からの帰り私のみ仙台下車、小池繁次郎(会津藩500石)の末裔宅へ一泊会津を語り楽しい一夜を過ごしてきました。

不許他見(秘書)其の6

これは木村幸蔵(会津藩士、公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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1、野村圓蔵殿公事奉行へ転役、10月二日若松登の事
1、石塚源五郎義与力大森貞治義、割り場浮人被仰付十月六日若松登の事
1、十月十日、樋口作左衛門、酒屋陣屋へ帰着
1、御陣屋造作の上十月二十一日町下宿より引き移る
1、役場の義同月二十五日引き移る
1、十一月四日名倉殿清介御附き添えにて御陣屋着。同日中川家内一同家内着
1、同月十三日十三日清介義郷割元改役人本役仰せ付けられ同日小役人本役仰せ付けられ候
1、十二月十三日御新領蒲原郡六郷村へ地所境界見聞のため、同心良蔵召し連れ出役致し候事
1、同月二一日、名倉殿、若松登り、同月二八日帰陣の事
1、辰年正月三日より五日迄井深宅右衛門殿隊御陣屋へ着に相なり、組頭池上武助、茂原半兵衛組の義、士中編製半々、都合八十一人、右隊長始め隊下残らず陣屋内明き長屋へ下宿設け致し候。越国表の義、追々切迫については御人数弾薬製作などについては、役場の義凡て右軍事へまかり候義、夜分に限らず精々尽力罷りあり候事。

2011年10月7日金曜日

斗南日新館

戊辰戦争により会津藩校日新館は廃校になりましたが、一年間謹慎後、旧会津藩士達は陸奥の国、田名部(青森県下北郡むつ市)と三戸、五戸地方へ移住して旧会津藩を再建し斗南藩と命名しました。移住の年明治3年、会津藩校日新館を円通寺(仮藩庁)と三戸に開校し斗南藩校日新館としました。然し一年後に廃藩置県を断行され、全てが消滅してしまいました。それから110年後、昭和56年むつ市在住で斗南会津会会員の吉田解造氏が斗南日新館と命名した剣道道場を開館しました。藩校日新館の夢を胸に吉田氏は剣道を通し武士道の心を青少年の健全育成の教育として活用したかったのだと思います。道場開館の時に合わせたように松平十三代当主、松平保定様が下北へ来郡された折来館され、快く斗南日新館の五文字をしたためられたそうです。それから三十年の歳月が過ぎ、松平十三代当主保定様は今夏永眠なされました。戊辰戦争以来百四十二年の歴史を想いながら天国へめされた事と思います。陰ながらご冥福をお祈り申し上げます。
吉田氏も高齢には勝てず道場を閉館する事になり、今回この書を私の私設資料館への展示を希望されました。

鹿

松林の右端辺りに居たはずなのに???この前一週間前にも大間牧場で目撃しました。その時は車道を横断中でしたので、5mの至近距離でしたが、同乗中の私の孫2匹が興奮して吠えた為、デジカメを用意する間も無く鹿は林の中へ消えてしまいました。体高1m以上、体長1、8メートル位の大型の鹿ですが、2頭目撃しました。カモシカは日常的に見ていますが、巨大な角を持つ鹿は下北には居ないと信じていました。大間の町は原野が多く、雪も少ない所なので冬場の食物に不自由しない為なのでしょうか、原野の草の実も雪に埋もれない為か、最近の暖冬異変もかさなっているためか、雉とやまどりも異常繁殖中です。昔の年寄りは、よく、蝦夷鹿が一列になって、津軽海峡を北海道から渡ってきたと言っていた記憶がありますが、本当に蝦夷鹿なのか、本州鹿なのか素人の私には判別できないでいますが、近いうち、必ず映像に撮りたいと思います。
中央に3羽だけ写りました。この出汁で蕎麦を食べたらやめられません。

2011年10月6日木曜日

夜の銀座

川向が函館市の夜景だけど今日はあまり良く見えませんでした。

上の漁火は大間マグロの延縄漁の火です。
上は大間から風間浦にかけてのイカ釣り船の漁火。夜が明けるまで灯る漁火に、私は何時も生きる人間の勇気をもらっています。雨の日も風の日も出漁する漁師の人々の生きざまに感動し、最北の地に生活する喜びを感じる一人です。

2011年9月29日木曜日

吉 幾三の大先輩

広沢安任(やすとう)
会津藩校日新館に学び、後江戸の昌平校に入る。容保が京都守護職時代は公卿や諸藩の有志と親交をもち過激攘夷派対策に奔放する。鳥羽伏見の戦いで敗退後、江戸に残り新政府軍に容保の助命嘆願をするが捕らえられ投獄される、が翌年ゆるされ、其の後斗南藩少参事として下北の地を踏む。米も出来ない不毛の地で悲惨な体験をした安任は廃藩置県後、青森県三沢市の郊外に日本最初の洋式牧場を拓きました。イギリスよりプロの牧童を雇い入れ2300町歩(一町歩は
3000坪)の牧場です。明治の初期に近代日本の食生活に寄与することを考えた彼の判断力には敬服します。又彼は斗南を選んだ一人でもあり、大久保利通から明治政府への誘いも断り、最後まで自分は(野にあって国家につくす)事を主張しました。廃藩置県の時は大久保利通の力を借りて、当時青森県に五藩あった藩を津軽藩と合併することにより一つの県にまとめ弘前県が誕生し、其の後青森県になりました。若し大久保利通からの誘いを断っていなければ、新幹線の開通も早かったかもね?明治10年代彼は東京新宿に牧場を拓き、牛を飼いました。え~と言われますが
本当です。吉幾三さんも真っ青です。更に明治20年代には自分の息子と小池、小林(斗南士族の若者達)をアメリカへ馬と牛の買い付けに向かわせました。一ヶ月貨物船に揺られサンフランシスコの港へ着いた彼等は日本とあまりにも違う文明社会に目を疑いました。出迎えたのはサンフランシスコの牧場主で、6頭立ての馬車だったそうです。牧場主の歓迎を受け、食卓の御馳走を見た時、
斗南との御馳走の差の大きさに驚いた様です。日本はまだ武士、アメリカはカウボーイの時代でした。

2011年9月14日水曜日

不許他見その5

これは会津藩士、木村幸蔵(公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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廻村の順9月10日出起
1、田上村(10日昼桑名領所) 加茂(同泊り桑名領所) 三条(11日昼村上領)
  岡野村庄屋、土田磯治宅(蒲原郡御新領)
1、鬼木村大庄屋、庄五郎宅  今町(同日昼新発田領) 長岡(同泊り牧野備前の守様城下)
1、妙見村(13日昼長岡領)  川口村庄屋中林三郎右門宅(同泊り魚沼郡御新領)但し出迎えの
  為小出嶋陣屋より佐藤源右門罷りいで候
1、田戸村庄屋利八(川口昼後出起14日泊り) 岩下村庄屋又右門(15日昼右同断)
  小出嶋(同泊り右同断)郡奉行、同心まで宿庄屋猪口惣兵衛宅、役人宿伊藤吉右門
1、大湯村(16日泊り右同断、湯治場但し今日より小出嶋諸役人、源右門、連治、同心弥助
  御附添い致し
1、原虫野村(17日昼右同断)  五箇村(同泊り右同断)但し同所より森幾右衛門義、若松表へ
  夜分に限らず急登御用状着直ちに相登ル
1、麓村(18日泊り右同断) 六日町(19日昼小千谷下) 長崎村(同泊り御新領)
  清水分(20日同昼) 雲洞村(泊り同) 
1、小出島泊り(21日六日町より乗船ゝ中昼  小千谷(22日昼)陣屋へ罷りいで酒、肴振る舞い
  に預かる。御代官篠田覚右門。  片貝村(同泊り御新領)
1、河根川村(23日昼泊り)三嶋郡御新領  上条村(24日同昼) 出雲崎(同泊り)
1、寺泊(25日昼)  矢作村庄屋曽七宅(同泊り御新領蒲原郡)
1、巻村(26日昼長岡領) 内野村(同泊り御新領蒲原郡) 平嶋村(27日昼御新領)
  酒屋陣屋着 〆17泊り

2011年9月8日木曜日

義援金

3月11日の大震災で被災された皆様へ心からお見舞い申し上げます。私達斗南会津会会員の先祖達が生まれ育った会津若松は甚大な直接的な被害は無かったようですが、東京電力福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故により、近隣町村の住民と自治体が他市町村への非難を余儀なくされ、特に大熊町は、会津若松市へ数千人規模で集団避難していることを知りました。その受け入れの為、若松市とその関係団体と市民が一丸となって対応に追われている情報を得、居ても立ってもいられない気持ちになり、6月の総会に謀り義援金を募る事に決議され、8月末をもって〆、本日代表4名でむつ市役所を表敬訪問し、義援金を届けてまいりました。会津若松市とむつ市は姉妹都市の盟約を結んでいます。その組織名はむつ市姉妹都市推進連絡協議会であり、会長は宮下順一郎むつ市長であり、我が斗南会津会の顧問でもありますので、市長を通して若松市へ送っていただくようにお願いしてまいりました。原発事故の一日も早い終息と震災被災地の一日も早い復興を祈念します。

2011年9月7日水曜日

地球は丸い

先日9月2日台風12号の脅威に怯えながら、商工会館建設に向け、北海道蘭越町の複合施設の視察旅行に出掛けました。朝7時10分大間発のフェリーに乗り函館着は8時50分、美人のガイドさんがお出迎え、大沼公園を通り、羊蹄山をのぞみながら現地着は12時、昼食後、蘭越町商工会との会合も済み、ニセコ、定山渓を通り札幌へ向かう。北海道はさすがに広い、北海道地図は縮小されているのでは?と肌と肉体で感じます。以前食べた蘭越町のかぼちゃの味が記憶にあり一個300円(安い)で買い、女房へのお土産に。夕方やっと、待望のススキノ着(ホテルがススキノのど真ん中)、夕食もそこそこ、ネオンの街へ、後は御想像通りです。翌日3日は帰りコース。雨の中、千歳、白老、苫小牧、登別、を通り、懐かしの室蘭へ、(小生、中学3年の時、室蘭輪西中学校におりました)輪西の街と、その裏側にあるイタンキ浜と富士製鉄のあった工場地帯の懐かしい思い出を胸に、チョット少年時代の純な気持ちになっていたのに、バスは無情に通り過ぎて行きました。団体旅行は仕方なし。間も無く親戚の叔母さんが住んでいた母恋の地球岬へ御到着です。
この地球岬から太平洋を望むと、確かに心なしか、地球は丸く見えました。私だけでしょうか?会津の先輩大庭恭平も多分、地球岬へ来たに違いありません。帰りコースは大庭恭平(会津藩最後の御聞番(隠密)で斗南藩では刑法掛)が晩年身を寄せた、当時の役所が在ったであろう辺りを遠目に見ながら、そこで彼が病没したした前後の、彼の心の中を想う時、おもわず、両手を合わせてしまいました。
注~美人のガイドさん曰く、この北海道バス旅行はランク付けでは初級クラスだそうです。

2011年8月28日日曜日

叙勲受章祝賀会

昨日8月27日むつ市グランドホテルに於いて、菊池紅(くれない)女史の祝賀会が執り行われました。紅女史は我が斗南会津会の先代の会長を勤め、むつ市長、県会議員の経歴を持つ、菊池渙治氏の奥様で、昭和34年に紅服装学院を設立し、長年に渡り和裁,洋裁を通じて、下北地域の教育と文化の発展に尽力した功績が評価され、此の度瑞宝双光章を受章されました。会場には元ピチピチの学院生だった?卒業生も含み参加者は300人以上に膨らみ、喜びの歓声で満ち溢れました。
上、市長も知事夫人もご満悦。下、どなたかも紅女史にあやかって
紅先生、お疲れ様でした。お陰様で斗南会津会の自慢話が一つ増えました。

2011年8月25日木曜日

不許他見その四

1、卯年(慶応3)七月十七日、同心梶沼栄三郎一同出起(出発)野沢村、津川町泊まり、同所より
  乗船同十九日酒屋村へ着。 栄三郎一同、同村に仮宅罷り在り候。亭主定吉。
1、轉陣普請中に付、役場之義、庄屋彦之丞宅。野村殿同所住居。
1、詰合役、源五郎、幾右衛門、保之助、勇吾、喜助、清次郎、林助、且之助等々
1、御代官、作左衛門義、若松表へ登居候事。
1、清介(重孝の妻の弟)義、為勤番(きんばんのため)若松表へ登居候事

1、力之進義、御村替為御用在江戸
1、源右衛門、運治、五助、貞治、弥助、常太郎義、小出嶋陣屋詰
1、左次右衛門、恒五郎義、福岡御陣屋取り払い跡始末被仰付、居残り、七月下旬酒屋着
1、勝衛、徳五郎義若松
1、七月二十四日、陣屋地祭りに付、源五郎一同麻上下(麻かみしも)にて役詰致、同心栄三郎
  且之助罷出候
1、八月十七日圓蔵殿若松登九月二日帰陣
1、九月十日出起魚沼、三嶋両郡廻村に付罷出附添役人、幾右衛門、幸蔵、小頭嘉助、同心
  貞治、林助、栄三郎、都合上下拾八人
供立
1、郡奉行、甲冑櫃、櫛形長朴籠駕(かご)、立傘、鎗(やり) 、挟箱、両掛、長持、大小弐棹
1、役人割元、引戸籠駕、鎗 、両掛壱荷、若黨(わかもの)壱人、中間壱人、明荷壱つ
1、小役人、引戸籠駕、鎗鎗、両掛壱荷、中間壱人、明荷壱つ、但役人之義跡乗致

2011年8月24日水曜日

大間まぐろ

本日8月24日PM5,30分ごろ大間漁協荷揚げ場の様子です。一本釣り漁師の熊谷さんが140数キロのまぐろを2本釣り上げて帰ってきました。沖から家へ携帯で連絡をとり、お母さんと嫁さんが出迎えて、手伝いをしていました。大間では荷揚げしたマグロを漁協の職員が神経を抜き、臓物を取り出します。その臓物からキモ(心臓)とチュウ(胃袋)を取り家族が持ち帰ります。今日のマグロは190数センチ、まるまると太り、如何にも油がのっていそう。多分良い値段が付く事でしょう。今夜のビールは格別でしょうね?
大間のマグロは一回に7,8ほん、2m位の高さで飛ぶ事があります。運が良ければ陸の高台から双眼鏡で見る事ができるかも。

2011年8月20日土曜日

燕のお宿

8月18日、北端近くの新田邸は大変な状況になっていました。居間に5か所
玄関正面吹き抜けのシャンデリアに1ヶ所、更に玄関にも1ヶ所
春の子育ては同じ様に終わり、今、秋の子育ての真っ最中です。家主は夫婦とも、とても人間がやさしく出来ているので、燕達も居心地がよさそうです。住宅の中に巣を造るのは昔と違い最近の住宅はスマートになり、軒下等も少なくなってきた為でしょうか。夜間は玄関を閉めるそうですが、お仕事が漁師ですので朝は燕より早く起きます。親鳥は外で待機していて、玄関を開けると同時に子供の所へ飛んで来るそうで、家主もその子育ての様子が可愛いと、目を細めています。

2011年8月19日金曜日

お盆

大間のお盆は7日盆(8月7日)から始まる。墓石の清掃をし、少しのお花と御菓子をあげて焼香してきます。13日の午前中は本格的供花とあられ(生米の上にお茶をのせ、水で浸したもの)水桶とひやく、ホゲ弁当(法界弁当の事で、故人が餓鬼に悪さをされないように施す弁当)や、故人が生前好みのお酒やたばこ、御菓子等、を並べ墓石に水をかけ、あられを割り箸で墓石いちめんにかけた後焼香し、家族皆で故人と一緒に弁当を頂きます。更に夜も墓参し、大人も童心にかえり、子供達と一緒に花火をやる日本でも大変めずらしい風習があります。私の聞いたところでは、長崎県にも花火をやる町があるそうですが、ひょっとして北前船で本州最北端まで来たのかも!墓参りは16日まで続きますが、当日清掃した後又20日盆があります。当町の町民の皆様の神仏への信仰心には感心します。
当家には墓石が三基あります。一基目が会津から当地へ来てから生まれ、明治20年に他界した私の曽祖父の二女の墓、二基目が曽祖父の長男(私の祖父)の長女(明治25年没)三基目が曽祖父(明治28年没)ですが、祖父は明治3年に斗南へ来て以来、一日も故郷会津を語らない日は無かったと言われていますが、25年間の会津へ帰る夢は曽祖父の死をもって、断念したようです。