2011年2月28日月曜日

会津藩士参集

昨日PM3時よりむつ市太田宅に於いて二月二十日の寒蕎麦会の反省会が執り行われました。
例に依り私達は幕府、会津藩以外他をあまり良く思わない、きらいが百四十年も続いて来た様に思いますが、特に熱い者同志が十五名程集結し、反省会から試食会、試飲会にころころ変化していきます。
ほろ酔いの会話の中で、正直、薩摩、長州に対する元来の気持ち、考えをもっと前向きに考えて行きたいとの話も出て、静かな冬の夜は和やかにふけて行きました。今回も食のメーンはやはり斗南ヶ丘の蕎麦と昨年私の釣り上げた岩魚のこつ酒でした。
メンバーの紹介
手前右  山本源八(会津藩次席家老、内藤介右衛門信節の母方子孫で斗南会津会常任理事で
      事務局も兼、ペンネーム内藤介右衛門)
手前右より二番目  御霊櫃峠で活躍した坂部三十郎、坂部裕吾の子孫、ペンネーム坂部裕吾
手前右より三番目  小生、斗南藩史生、木村幸蔵の四代目、ペンネーム五石弐人扶持
手前右より四番目  太田巳代次(斗南会津会常任理事、飯盛山で自刃した石山寅之助の関係者
手前右より五番目  海老名信行(斗南会津会理事、ペンネーム海老名軍治)
手前右より六番目  遠藤雪夫(斗南会津会副会長、芝増上寺に眠る守能長忠の子孫)
左手奥                      千葉亮 (斗南会津会理事 ペンネーム千葉周作)
その手前       吉川 圭(斗南会津会副会長  ペンネーム近藤勇)
その手前       圭の親父吉川浩(前副会長   ペンネーム会津のジョッパリ)
その手前       奥方様                                    




2011年2月26日土曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳その10の2

1、敵味方之変事を聞出ニおイテハ昼夜不限ニ訴ふへし流言雑説申触間敷候事
1、鉄砲ハ兵器之隋ヘニして失フトハ不覚之至也仮令隋味方大敗ニ及び候共決
  而不可捨去事
1、陣中調錬不怠運動を可心懸其他ハ物静ニして気を可養事
  右条々皆可相守者也
  慶応四年辰五月

        禁製
1、  咳哢口論并諸勝負之事
1、  過酒好色遊興之事
1、  猥ニ伐林木田畑を踏荒或ハ押買狼藉之事
右之条々皆致停止之若捨令違背ハ可処厳科者也
慶応四年辰五月


五月二十六日申渡覚
諸月番
奥羽連合組相整候次第委曲先達而中申聞置候処此程弥相整
別紙照会約書仙台表ニおいて別半連半之上及誓約候儀ニ候
此旨被得其意仲ヶ間并組支配江も可被申聞候事

今般奥羽列藩会議於仙台表、告鎮撫総督府欲以修盟約
執公平正大之道、同心協力、上尊王室、下撫人民、維持皇国、
而安宸襟、仍条例如左。
1、以伸大義于天下為目的不可抱泥小節細行事
1、如同舟渉海可以信居弱義動事
1、若有不慮危急之事此憐各藩援救可報告総督府之事
1、勿負強凌弱勿計私営利、勿漏泄機事勿離間同盟
1、築造城堡運搬糧食、雖不得止、勿没令百姓労役不勝難苦
1、大事件列藩集儀可帰公平之旨細微則可随其宜事
1、通牒他国或ハ出兵隣境皆可報同盟事
1、殺戮無辜勿掠奪金穀凡事渉不義之者可加厳刑事
右条々於有違背者則列藩集議可厳牒者也
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2011年2月24日木曜日

昨夜ニュウジーの話

例に依っていつもの通り単身赴任の男からTELがあった。今晩御暇?答=無職だ、で契約成立である。間も無く御来席。第一声、俺の娘1月にニュウジーへ行った、である。
ビックリギョウテン!前日の大地震。それも英語の勉強の為との事、益々不安が募る中、奥様から
向こうの大使館関係から連絡が入り娘さんは大丈夫との事で、ホット一安心、する間も無く彼の携帯は一時間程鳴りっぱなしでした。今日のニュースでは日本人不明者は20数名とか?無事を祈ります。私達は何も出来ないけど無事を祈る事だけは出来ます。何とか助かって欲しい。私は年寄りだが不明者は若者が多い。出来ることなら代わりに成ってあげたい。
それで現地の話をしながら、酒を飲みだした、最後は2升マイナス一合であった。酒が飲める奴に悪人はいない。

2011年2月23日水曜日

斗南磐梯



正式名称は釜臥山。明治3年会津から旧会津藩士とその家族は陸路、海路で新領地、斗南をめざし北上してきました。最終的に藩庁は田名部の円通寺と決まり、田名部の町に進路をとりました。そこで藩士達は目の前にそびえる巨大な山に目を見張りました。つい数日前まで見ていた郷里の磐梯山に非常に良く似ていたからです。その後藩士と家族達は毎日のように山を眺め郷里を思い
涙を流したと云われています。誰が云うともなく斗南磐梯と云う名称がつきました。標高879m。

2011年2月21日月曜日

新粉寒そば会

2月20日斗南会津会恒例の寒そば会がむつ市はねやホテルで開催されました。
会員と会津藩、斗南藩に熱い関心を御持ちの方々が77名に膨れ上がり、盛大に
盛り上がりました。最初12,3名で始まったそば会が僅か7年にしてこのように進歩
した背景には、140年昔先祖達が会津から挙藩移封された下北は不毛の地、神代
のままの国といわれた、そのむつ市の斗南ヶ丘で栽培された、そばである事と、当時斗南ヶ丘へ
200戸入植した中で只一戸現在も居住している島影家が栽培した蕎麦と云う事。そして下北の
厳寒の冬を越した蕎麦だからだと思います。奥戸(オコッペ=大間町内)のじゃが芋も同じで寒い
冬程まろやかな甘みが出、兎に角絶妙な舌ざわりでした。澱粉質が変化するのかなー。
又参加者の中でベートーベンの交響曲第九の会のメンバーが10名近く参加しておられました
会津藩士松江久平(斗南へ来たと云われていますが名簿の中に見当たりません。多分明治5年の壬申戸籍発布前に会津へ帰ったのかも)の長男松江豊寿が第一次世界大戦のとき板東俘虜収容所でドイツ人俘虜
にとった人道的な行為はあまりにも有名な話ですが(映画バルトの楽園)、そのときドイツ人俘虜が演奏した第九が
日本で最初の第九の演奏だったそうですが、会津と第九と云う御縁でお付き合いさせてもらっております。只一つ失礼したのは、140年前の先祖達も参加していた為、蕎麦が少し足りなかったかも?来年の課題にします。
愈々酒宴、酒は会津??そば盛り、お母様方御苦労さまでした。お父様方は深く反省
                           市長、市議さん、第九の会長のってますねえ
気分は壮快、頭はモウロウー??

2011年2月18日金曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳その10の1

五月二十六日申渡覚
諸月番
1、殿様三代方面為巡見、明二十七日御発駕被遊被仰出候、右ニ付き御供方別紙之通
  御連被遊筈二候此旨被得其意仲ヶ間并組支配へも被申聞当所人別只今可被書出候事
陣中掟
1、陣中惣而油断を戒め勝而二伐り負而志??すへからす
1、約束之刻限遅滞致間敷候事
  附出勢触式は不意之節之相固予メ約定可有之合印、合言葉等時二臨ミ
  約定之心得肝要二候事
1、公用之外猥(みだり)二他陣往来致間敷候事
  但無拠用事有之節ハ届之上往来可致候事
1、矢火式ハ俄騒動之節ハ近間之者早速近付、其余ハ手元へ集可受差図器械
  諸落物之始末ハ兼而更番ニ更別を可定置事但弾薬之始末別而心を可付候事
1、他境ニ入或る勝ぶかましき義致間敷尤下知無シテ金銭を取間敷事
  附賄之善悪申立間敷事
1、敵陣近キ所ニ而夜火を燈スへカラス、長立面々又ハ諸番所用意之火ハ
  各別病人手負等ハ届之上可為用捨事但留火致候者火光外へ不見様
  用心可有之尤夜行ハ伏火燈を可用事

次回へつづく



大丈夫か猛きこころを君か為死出のやま路のさきかけにして
                        小山田 孝清

2011年2月17日木曜日

芸能保存発表会

去る2月13日大間町海峡保養センターに於いて年に一度、日頃鍛えた芸の発表会がありました。
会長、町長さんの挨拶の後、トップバッターは何といっても大間海鳴り太鼓です。津軽海峡をイメージした勇壮な太鼓です。
ちゃんこ茶屋のばば
古くから大間の町に伝承されて来た盆踊りです。今回は可愛い女の子達が踊っていますが
私も若い頃は浴衣に団扇で踊ったものです。
仁和賀山

和田さん、寿、堅蔵、友哉、教授皆キマッテルヨー
仁和賀山切声(にわかやまきやり)元は鰊場の沖揚げ音頭から変化したと云われています。
道先  ドト~ゴ~オ、ド~ットコデ若い衆たのむ。
下声  エ~
道先  ヨヤ~サァ~
下声  ヨ~ヤ~サ~
道先  ヤサノヨ~イサ~
下声  エ~エエ~ヨ~ヤサ~
道先  ヨ~オイト~ナ~
下声  ソ~リャエンヤ、ヤッコラドッコイ、ヨ~オイドッコイ、ヨ~オイドッコイナ~
(1)道先 ソ~ラ~エ~~エ
      今日は日もよ~し天気もよ~いし
      恵比寿、大黒舟遊びヨ~オイトオナ~
  下声 ソ~リャエンヤ、ヤッコラドッコイ、ヨ~オイドッコイ、ヨ~オイドッコイナ~
(2)道先 ソ~ラ~エ~~エ
      大鯛小鯛を釣り上げて~
      釣りざおかついで踊りだす~ヨ~オイトオ~ナ~
  下声 ソ~リャエンヤ、ヤッコラドッコイ、ヨ~オイドッコイ、ヨ~オイドッコイナ~
(3)~(9)まで省き
(10)道先 ソ~ラ~エエエ~これでも行かねば神がみた~のむヨ~オイトオ~ナ~
    下声 ソ~リャエンヤ、ヤッコラドッコイ、ヨ~オイドッコイ、ヨ~オイドッコイナ~
    道先 ドト~ゴド~ットゴデ仁和賀山一声たのむ”
    下声 エ~エ~エンヤエンヤエンヤ
    道先 コラッコレデモ行かねば、ヤ~ショイサデ、ヨ~シヨイサ~、ヤ~シヨイサデ
        ヨ~ショイサ、ヨ~ヤソ~レ、ヨ~シトレ~、ヨイサデコ~レ、ヨ~シトレ~
        モヒトツコ~レヨ~ショイサ~、ヤンサ~ノドッコイ
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2011年2月14日月曜日

歌謡(下北哀史)

この歌は青森音楽奉仕団から、結成3周年を迎えた、むつ音楽奉仕会にプレゼントされた作品で、昭和42年11月19日に開催された、むつ音楽奉仕会3周年記念チャリティーショウーに於いて
作詞者、作曲者を迎えて発表された曲である。

作詞 安田近野
補作 相馬詩彦
作曲 八洲秀章

1、涙こらえて 鍬とれば
  下北哀し  火山灰
  緑の山河  夢とおく
  過ぎし戦争を ふりかえる
  故郷の唄に 故郷の唄に 風も吹く
2、会津若松  鶴ヶ城
  落城あわれ 白き旗
  はかなきものと 知りながら
  幼おん殿 いただきて
  流れて空し 流れて空し 北の果て
3、何を語らむ 宇曾利湖の
  煙にむせぶ 恐山
  茨の道を ふみ越えて
  賽の河原に 石を積み
  はるかに偲ぶ はるかに偲ぶ 白虎隊

尚この唄は当ページの関連リンク集の向陽處(斗南資料館)を
クリックすれば聞く事ができます。

木馬


斗南藩主幼公容大(かたはる二歳)が乗って遊んだと云われている木馬。
元は実際に本物の馬の毛皮だったらしいが、今わ毛と耳が抜け落ちています。
青森県内に現存するらしいのですが、其のうち詳しい事調べてみようと思います

2011年2月11日金曜日

越後見渡勘定七分三分見立

曽祖父の残した戊辰戦争日記に書かれているものですが、内容が良く分からない侭投稿してみますので、御分かりの方は御一報下されば幸いです。以下本文
門徒宗  七分。  舟通行  七分。  信心参り  三分。  座頭  四分。                                                        
瘡毒(ヒセンカキ)  七分。  蛍  三分。  上戸  七分。  水損場  七分。  坊主 八分
諸宗  三分。  馬駄  三分。  名聞参  七分。  ごぜ  六分。  蚊  七分。
下戸  三分。  旱(ひでり)損場  三分。  神職  二分。  石地蔵  八分。 米  八分。
漁師  三分。  田畑  六分。  船渡  八分。  眞情  一分。  朝起  二分。
供養塔  二分。  大豆  二分。  職人  七分。  山  四分。  橋場  二分。
小銭  二分。  薄情  九分。  朝寝  八分。  放蕩  五分。  神社  三分。
里猫  三分。  扇  五分。  武士  二分。  山伏  一分。  三弦  九分。 鳥  八分。
寺院  七分。  鴎(はまねこ)  七分。  炬燵  五分。  百姓商人  八分。 尼  九分。
琴  一分。  鳶(とび)  二分。  芸事ノ出来候人  一分。  名医  五里。 金持 一分。
俳諧  九分五里。  女郎  六分。  眞ノ学者  一分。  むせか里  九分。
藪医  九分九里。  表餝(かざり)  九分。  歌人  五里。 素人 四分。  天狗  九分。
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2011年2月8日火曜日

ヤンシー号

明治3年私の先祖達を新潟港から陸奥の国、野辺地港や安渡港(現在大湊)やそれ以前明治2年青森港から函館港へ(函館戦争の為)官軍を運んだ船がヤンシー号と云われている。然しヤンシー号を確固たる証明出来る資料を現在まだ持っておりません。唯言い伝えと色々の情報に依ると、将軍家茂の時代、徳川幕府がアメリカ、ニュウヨークのデント組合から購入したとの情報を得ました。購入当時の船名は中国名で揚子江(やんつーつえ)だったようですが、薩長軍が鳥羽伏見の戦いで勝利し、徳川幕府の軍艦を没収した後、やんすー号と云っていたようですが、東北ではスとシが時々同じになりますのでヤンシーに変化したのではないかと思っております。このブログをご覧になって
より詳細な情報を御持ちの方は、是非コメント頂ければ幸いです。宜しくお願いします。

2011年2月7日月曜日

願掛け岩

男願掛け岩
海抜103メートル
大間から西へ16キロメートル離れた佐井村にあります。津軽海峡へせりだし垂直に切り立った岩肌は冬将軍へ挑戦しているかのようです。後ろ側に女願掛け岩があり、海抜90メートルです。
夏場は観光客も多いのですが、冬の現地は人影も無く波の音と、かもめが賑やかさを添えてくれます。                                                                                                                                     男願掛けのふもとに鳴海要吉の歌碑があり、これはそこから西下方の映像です。

あそこにも
   みちはあるのだ
    頭垂れひとひとりゆく 
       猿がなく浜 
         鳴海要吉  
                             

  男願掛け岩                          






                                                                                                                                                            

青森県函館市大間町?

私達は長年大間町に住んでいますが、今までテレビ放送は全て北海道放送しか見たことがありません。青森放送が場所的に電波が届かなかったのか、原因がハッキリしませんでした。町内でも見える所はあるのですが。県民税もしっかり払ってきたのにね、ブツブツものです。確かにこの町から青森市まで車で3時間半、函館市へはフェリーで1時間半ですから、函館のフェリー埠頭からタクシーで飛行場へ行き羽田まで飛行機の方が乗り物に乗っている時間だけで計算すると青森市へ行くより東京の方が近くなります。ここは緯度的に北海道松前町より北になり、従って桜の開花も松前よりも遅い訳です。ですから青森県民なのに北海道民に近い感覚でいたのかも知れません。それが先日電気屋さんから青森放送用のアンテナを追加すれば見えると云われ、取り付けたところ見事にハッキリ見える様になりました。青森市、弘前市、五所川原市、等いままで見たことのない町名と映像、津軽弁が流れ不思議な気持ちになり、昨日から青森県民としての認識を新たにしております。それに北朝鮮と同じ緯度だからカーチャンのキムチが美味しーい・・・・のです。

2011年2月5日土曜日

嘘のような本当の話

私は女房のカバン持ちで良くスーパーへ買い物に付いてゆく、女房に運転免許が無い訳ではない。雪道が怖いだけです。スーパーでは必ず魚売り場をのぞくことになるけど、鮑(あわび)の高いのには毎回驚きである。
今から60年前私が10歳のころ、夏休み中は毎日のように、隣の餓鬼大将クロちゃん(色が黒いのは朝から晩迄外で遊んでいるから)と弁当も持たず磯へ出かけ鮑を採ったものです。素潜りで一回に5,6個だから50回潜れば300個近い数です。サイズは5,6センチですが弁当代わりに50個位たいらげます。今買って食べれば完璧に破産しますね?又家の裏の海で遊んでいる時も近くの加工場の干場には中国向け
乾鮑用の鮑が数えきれない位干してあり、ついつい子供心に1,2個頂いてしまいますが、加工場のおやじさんは、あんまり喰うなよ!で終わりました。又朝は漁師のかっちゃ(おくさま)が鮑のいっぱい入ったもっこう(木製の背負い箱)を背負い集荷場へ行く途中我が家によって、ほれとせ(どうぞとってください)と云って大粒の鮑を2,3個置いてゆく事は極普通だったようです。その後成人になって気付いたのですが(自然を保護することの大切さ)遅かったかなーーー。それにしても今思えば津軽海峡は宝の海だったんですね。
古き良き時代のお話しでした。

2011年2月3日木曜日

津軽海峡冬景色

本州最北端大間崎今日PM4時の映像です。遠くに北海道の連山が見え画面の左に日本海、右に太平洋が見える大パノラマです。青い海と、青い空、空気は限りなく透明です。私は画面の手前から、すずき釣りをやっていますが、中間右端に見える標識灯も私の縄張りです。潮の流れは鳴門海峡の次ですが、川の流れと変わりません。標識灯は周囲50㎝位の狭い所ですが、命綱を付けてのフィッシングは命に代え難い楽しさを感じます。あまりノリスギて一度、赤い電気ウキを救難信号と漁船に間違われた事がありました。それがバレテ女房にコッピドク(したたか)叱られましたが、それから20年(内緒)無事に生きています。今日の最高気温はプラス1度位かなーーー。         
明日から少し気温が上がります様、神様にお祈りします。