2011年5月31日火曜日

怪奇現象?

平成23年5月31日PM5時50分頃から30分位の間この現象が偶然みられました。円の端々は虹色に見え、最初は虹かと思っていたが規模的に大きさも雨上がりの虹とは全く違う様に見えます。円は太陽を中心に、丸に近い。直径は函館から松前あたりまで有ると思います。
本州最北端の大間町から津軽海峡を挟んだ西に沈む太陽を3個の太陽の影が丸い円を描きながらの、言葉にならない、雄大な自然現象です。72年の人生を生きて来て初めて見た不思議な現象ですが大震災の前兆なのか?と思っていましたが今日6月1日になり、諸々コメントが来ました。どうもこの自然現象は日暈(ひがさ)の一種らしい。でも海峡の上、夕焼けのひがさは、素晴らしいの一言に尽きる。大間の町に住んで幸せを感じます。何時の日か又ひがさに会える日を楽しみに待っています。右上の白い線は飛行機雲です。

2011年5月28日土曜日

春日優婆尊堂(かすがうばそんどう)

堂の裏にある井戸、元は泉でした。今でも大量の水がもくもくと湧き出しています。大昔から此の地区の人達の聖なる水として、尊ばれてきました。この水を飲むと優婆尊の御利益で母乳が出るようになるそうです。又古老の話では水が母乳にも成ったと言われています。
大間町のまちはずれ根田内地区にあります。堂の中には優婆尊(おばあちゃんの御神体)が祀られていますが、年に一度(正月)だけしか拝観できません。優婆尊は今から300年程前秋田から来たと言われています。その為秋田民謡などの音楽を聞かせると、座布団の上で踊りだすそうです。出産の時優婆尊が御手伝いしてくれるそうで、昔から安産の神様として親しまれ、若い女性が数多く参拝したと言われていますが、最近では医学の進歩のためか、参拝する女性の数も少なく大間町の人でも、この堂の存在を知る人は僅かです。おもろい話もう一つ。
世話役が年に一度のすすばらいで優婆尊を出した時、私は300年風呂にも入っていないので、頭が痒いから、シラミを取ってくれと言うそうです。なんとも、庶民的で、おおらかな神様です。

2011年5月23日月曜日

斗南ヶ丘藩士居住地跡

上白っぽく見えるのが一区画された土塀のあとです。藩士達が遠い若松の再建を夢みた場所です
が当時の下北は寒冷地向きの米は無く、僅かな、ひえ、あわ等に海岸から拾ってきた海草等を入れて食べるのが精一杯の食事でした。その食事は、おしめと言われていました。その為多くの藩士とその家族達は栄養失調になり、病気を併発して死亡していったようです。現在のように立派な病院も薬もない、不毛の大地での無念の最期を送った藩士達は故郷を想い、旧藩主容保公の行く末を案じながら、義に殉じた心境だったに違いないと思う。

2011年5月21日土曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳其の15

此附札書面何れも爰元ニ余計之御有合無之候間、如何体ニも致間を合候様。
1、地方御家人鶫(つぐみ)川市四郎、山口徳三郎、 友野千代八、百瀬良之進、
  大戸辰巳、同大次郎、梧村外次郎、橋本四郎助、同久吾、武藤一、同林次郎、
  神尾守助、武藤源吾、林久左衛門、〆14人。右之者共、御霊櫃より鈴木式部隊ニ附添
  上小屋迄、罷越訳之処、訳柄有之、長沼より引き返し、依而御霊櫃相勤候事
  6月13日
篠田佐中儀母親折角ニ付6月14日爰元書記ニ而下シ候事。但同19日帰り候。
1、漆木植立方勤、長谷川一次郎噂之儀ニ付、御催促被仰越候、処旨ハ御吟味中ニ而
  早速之御沙汰も相運間敷哉ニ候処、差支ニ候ハゝ、方面之御陣持へ御達有之候様
  此段可及御通達旨被仰付如此(かくのごとくに)ニ御座候
 6月12日                  若松御用所
坂部三十郎様



十七回忌招魂祭追善詠歌

十年余り七年ふれと、ますらおの、ゆゆしき名こそ、うもれさりけれ
                                井口いし子

2011年5月18日水曜日

集団検診

本日は大間町漁業活性化センターで地区住民の集団検診がありました。だいぶ前に町内で住民福祉課から委嘱されている、おばちゃんへ申しこんでいたのですが、昨日になっても、検診に関する受診要項が届かない為、役場へ確認したところ、申し込みが受理されていません?でした。あわてて電話で申し込みの確認をとり、2時間後職員が書類を持参してくれて、ひとまず安心。朝6時半受付開始と書いてあり、其の前なら、1番乗りと思って、うんちの付いた試験管も持って、6時15分頃到着し、受付に行ったところ、なんと、順位は42(死に目)番、不吉そのもの、ホテルの室番号等ではありえない。早起きは漁師の人には、かなわない。胃がん、大腸がん、前立腺がん、メタボ等申し込み、愈々問疹からスタートだったのですが、隣の列の41番の人は問疹の係がプロなのか?私よりも20分も早く終わり、すでに血圧測定に進んでいます。私の列の係は新入社員かなと、悔しさを堪え、それでも順次検診を済ませ、愈々レントゲン撮影です。バリュームを飲まされ、死刑台みたいなベットにしがみつき、左右上下回転をし、やれやれと思ったら、突然休止、放射線技師がバリュームをもう少し飲んで下さい???飲みました。
お陰様で今日は大変美味しいバリュームを、御馳走になり、おまけに放射能も人の2倍程、御馳走になってきました。

2011年5月14日土曜日

斗南ヶ丘の墓地

妙見神社鳥居より、尻屋崎方面へ歩いて1分位の場所です。車道より4~5m登った所の、地区の墓地の一番手前にあります。ここは明治3年6月以降斗南藩士の墓地でした。廃藩置県後、野ざらし状態でしたが、この4~5mの段差の中程に人骨が露出していて、此の地区へ入植した地区の人達により、その後墓地として整備をした時、斗南藩士と家族の遺骨や生活用品等が発掘され、後に斗南会津会の有志達により追悼之碑が建立されています。左側に見える、奉齊霊神と彫られた墓石は
明治4年9月29日辛未(かのとひつじ)に亡くなった佐々木檉(テイ)齊のもので、更にその左に竹村俊秀祖母之墓があります。追悼之碑には、何方かが供えた御酒と御茶がありました。墓石の周囲は現在も近くに住む、斗南藩士の末裔、島影ご夫妻により、きれいに、整備されています。

2011年5月8日日曜日

妙見神社春の例大祭

5月5日妙見神社の春の例大祭がありました。この神社は今から554年前、南部政経公が建立したと、田名部町史にあり、大変由緒ある、格式の高い拝殿です。この場所は、私達の先祖達が、明治3年会津藩取り潰し後、田名部(むつ市)の小高い丘に、200戸近く移住して名付けた、斗南ヶ丘にあり、唯一先祖達にとっても、心のよりどころとして、毎日の様に参拝したものと思われます。当日は田名部神社の宮司さんのもと、五穀豊穣と家内安全の無事を、神に感謝し、又御願し、玉串奉奠の後、直来に入り、地区の皆様と親しく懇談をしました。氏子総代は、移住時より代々この地に居住している島影氏(斗南会津会)そして斗南会津会員10名程が参加し、夜の更けるまで、語りあかしました。
 下は樹齢140年位に見える杉の大木です。この地に来た時、記念に植えたものでしょうか?
 下は拝殿の下方にある龍神さま。斗南ヶ丘には龍蛇信仰が古くから有り、地区の人々は蛇を殺すような事はありません。

2011年5月2日月曜日

平成23年度大間町消防団定期観閲式

先導は海上自衛隊大湊音楽隊、一糸乱れぬ行進が素晴らしい。演奏曲目は軍艦マーチその他は
???です。前夜2cm位のヒョウが降り、町中真っ白になったのに、今日は晴天、別世界になりました。

大間の町を災害から守る、町の勇士達です。先頭は消防団長、ミツワ建築さん、2番目副団長、奥戸(オコッペ)の小林住設さん、3番目同じく副団長、宮野製菓のナリさん、その他大勢です。ガンバッテ~



陰ながら家のかーちゃんも応援しています。