2011年5月23日月曜日

斗南ヶ丘藩士居住地跡

上白っぽく見えるのが一区画された土塀のあとです。藩士達が遠い若松の再建を夢みた場所です
が当時の下北は寒冷地向きの米は無く、僅かな、ひえ、あわ等に海岸から拾ってきた海草等を入れて食べるのが精一杯の食事でした。その食事は、おしめと言われていました。その為多くの藩士とその家族達は栄養失調になり、病気を併発して死亡していったようです。現在のように立派な病院も薬もない、不毛の大地での無念の最期を送った藩士達は故郷を想い、旧藩主容保公の行く末を案じながら、義に殉じた心境だったに違いないと思う。

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