2012年6月28日木曜日

ポーラスタ号

大間町から佐井村まで車で15分、佐井村から青森行きの高速船ポーラスタ号に乗ると、青森市まで2時間半で着きます。但しべたなぎ状態での話。途中仏ヶ浦では接近、徐行しガイドの説明のサービスが付きます。大間町から国道を青森市まで走ると3時間半はかかります。

夏場大間へお出での方へお勧めコースです。イルカウオッチングも運が良ければ可能です。

2012年6月11日月曜日

不許他見その13

これは木村幸蔵(会津藩士)の戊辰戦争の記録です。
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1、新発田家の義、いよいよ官軍附きの由、相あらわれ候につき、6月10日仙藩、米藩など申し   合   
  いの上、加治川五十公野、荒川村あたりまで人数押し出し、すでに取り掛かり候義の処、人
  数六百人差出し候て、いよいよ詫び致し、右人数米藩、上ノ山人数一同、水原へ懸り長岡方
  面へ出兵致し候事。右に付き、酒屋表の義、御人数とても、之無く御手薄にて、にわかの義
  不意など、打ち掛けられ候様の義、これあり候ては必至の防戦なども行きおよび兼ね候処と
  急飛さしおこし、陣屋詰役々残らずひとまず水原表へ引き揚げ候事。
1、同月十七日新発田表の義、鎮静いたし候旨、酒屋表へ帰陣致し候。

2012年6月7日木曜日

原発とマグロの町

上記のタイトルで日経の記者が大間の町に数十日滞在していました。が今から145年前までこの地は南部藩領(盛岡)でした。南部藩も会津戦争で会津の味方をしたことから、領地を明治政府(薩摩、長州主軸)から没収され、その地へ会津藩士は挙藩移封され、斗南藩を立藩しました。が私の曽祖父が斗南藩の史生(上司の代筆や記録等をする)をやっていた関係から現在の資料が永久保存されてきました。これを知った日経の記者が当家を訪ねてきたわけです。
彼と初対面の段階で、何か訳ありの雰囲気はありましたが、お互いに、男同士、正直に取材に応じて、数回お会いし、彼が明日東京へ帰ると、御礼に来た時、自分は長州の出身ですと、告白しました。然、別に私は驚きませんでした。過去の日本人同士の戦争は悲惨でしたが、今の日本は平和が続いています。現在も世界のあちこちで紛争が続いています。私達日本人同士、いがみ合うのは、時代錯誤の様な気がします。私の代で、斗南へ来てから、4代から5代目になろうとしています。一つの事に拘る事は前進が無いように思う。私は大学生の時、隣の席の友人は、岩国でした。

2012年6月6日水曜日

平成24年斗南会津会献霊祭

6月3日斗南藩藩庁が置かれた、田名部(むつ市)の円通寺に於いて37名の有志が集合、145年前戊辰の乱で無念の死を遂げた先人の霊を弔いました。
碑の招魂之碑の4文字は斗南藩藩主だった源容大(かたはる)の書
裏面には斗南藩士だった南摩綱紀の漢文が刻まれています。
以下読み下し(徳江靖子氏)
明治戊辰の乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎として風霜を凌ぐ。
乱平ぐに及び、生者は皆、一視同仁の澤に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙たる野草の間を
彷徨し、その所を得ず。ああ哀しいかな。今茲(ことし)庚子はその三十三年忌辰なり。
是に於いて、旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、招魂の祭りを相謀る。
この寺はすなわち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。
其の後斗南ヶ丘の墓地へ献花して、総会、懇親会と続き、更に二次会、三次会は定番でございます。

斗南会津会の平均年齢は5,6歳若くなりました。これでも?。斗南会津会の奥様方は美女だらけ、会津藩士は面食いだったのかなー?