2011年12月17日土曜日

不許他見(秘書)その8

これは木村幸蔵(会津藩士公事所小役人)の戊辰戦争の記録です。
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1、越国弥(いよいよ)切迫致し候に付き、3月19日、中川、鈴木、佐藤家内共一同若松表へ差起
  候事。但し道中の義、新道相かけ、御領下村々、村継致し呉そうろう由、同22日滞り無く若松
  着。
1、勅使官軍等、高田迄罷り越し候よしに付き、津川へ出張罷り在り候、木村忠右衛門隊3月19
  日酒屋御陣屋へ出張に相成り翌20日、井深隊一同、弥彦宿観音寺村へ出張に相成り候に
  付き役場内中川清介、木村幸蔵、鈴木運治、古川保之助、佐藤勇吾、小池林助、物江勝衛、
  宮下且之助、加藤右衛門、右両隊兵糧方仰せ付けられ一同出張いたし、兵糧、弾薬、兵器
  運転については、数百人の人足材料、精々尽力致し20日寺泊へ木村隊一同一泊致し、
  井深隊の義は観音寺村へ出張に相成り翌21日、木村隊共々残らず観音寺村へ出張に相成
  候処、役場内の者共同所に一同罷り在り候ては、用便にも相立ち兼ね候につき御領下蒲原郡
  堺の村と観音寺村と相分かれ同所裕次郎宅に佐藤勇吾一同引き通し罷り在り。
  堺の村は中川、鈴木、保川、加藤同心共々の義は替わり合い相勤め候。
  然る処井深殿より高田表の形勢、飛札を以って相伺され候処、勅使の義、江戸方へ向かいに
  相成候由にて下越後へ急に向かい候様子も相見えず酒屋御陣屋之義、御手薄に付き同月
  27日木村隊は酒屋表へ帰陣、井深隊の義は同日小千谷表へ出張に相成候に付き尚又同所
  迄一同、同行致し、同所御陣屋詰合へ相譲り4月2日同所より乗船にて出起、三条泊まり翌
  3日尚又乗船にて酒屋表着致し候事。

2011年12月12日月曜日

勉強会

昨日11日、日曜日、むつ市子供会連合会主催で斗南藩の歴史を探る、今年3回目の勉強会があり熱心なむつ市民が23名程集まりました。今回は大湊の中央公民館よりバスで出発し、斗南藩の仮藩庁になった円通寺へ向かいました。連合会側から3名と斗南会津会から3名案内役として付き添い、あいにくの吹雪模様の中、寒さとトイレを我慢しながら、頑張ってきました。その努力の甲斐もあり今回もかなりの成果があったように感じ、満足して帰宅しました。一昨年斗南藩立藩140年祭をやって以来むつ市民の反応が郷土の歴史(斗南藩の)に少しづつ、燃え移ってきているように感じ、大変嬉しく思います。本堂で説明の後、藩士の墓参をしましたが、まだ私達に知られていない孤独な藩士の墓碑が下北には眠っています。

2011年12月3日土曜日

大黒様の命日

12月1日は仁和賀山(祭りの山車)の守護神、大黒様の命日と言われ、昔から毎年、盛大に祝宴が執り行われて来ました。然し不思議なことに、誰も命日が12月1日で、何年前に何処でどんな病気か事故で亡くなったのか?一体神様が死んで良いものかとの質問に答えられる人はいません。大黒様が日本へ来てから出来た迷信なのでしょうか、それでも毎年祈祷師を呼んで供養をする訳です。今年は祈祷師の側に不幸があり来れませんでしたが、さすがに財力と厨房の神様と言われるだけあって、凄い御馳走の山です。
地元産マグロと鮑のとっちるが最高でした。若い衆は多分午前様かな?
中乗りの子供達も熱演、いよいよ会場は盛り上がります。
古老道先のどっとこで最高潮にたっします。
来年はどっとこ(鰊場のキヤリ)の源流を探る観光も検討中です。北海道余市方面が一番有望と言われています。

2011年12月2日金曜日

絶景、日本海と太平洋が同時に見える。

本州最北端大間町の西吹付(にしふつけ)山の展望台から津軽海峡と北海道の連山を望めば大パノラマになります。デジカメではその素晴らしさは表現出来ません。やはり肉眼が一番です。
左遠方の連山が津軽半島、右遠方の連山が北海道、中央の水平線が日本海です。
左上の山が北海道恵山岬、右に広がる水平線が太平洋です。
向かいの牛が臥せた様な山が函館山、その右に函館の市街が広がります。この展望は9月以降に限ります。春から夏は太平洋からのガスで何も見えません。観光の際は御用心を!

龍神様

10月18日福蔵寺管理による、八大龍王殿(一般的に龍神様と呼ばれています)が町有志により3ヶ年の準備期間を経て落成しました。御神体は1860年(万延元年)、日本中が黒船問題でわいわい騒いでいた頃大畑湊や大間湊の網元や廻船問屋により建立されました。海上安全、大漁祈願の殿堂として大間の海を見守っています。

天井に描かれた龍神
下は右大臣、御神体へ向かって左になります。右側に左大臣があります。