2011年9月29日木曜日

吉 幾三の大先輩

広沢安任(やすとう)
会津藩校日新館に学び、後江戸の昌平校に入る。容保が京都守護職時代は公卿や諸藩の有志と親交をもち過激攘夷派対策に奔放する。鳥羽伏見の戦いで敗退後、江戸に残り新政府軍に容保の助命嘆願をするが捕らえられ投獄される、が翌年ゆるされ、其の後斗南藩少参事として下北の地を踏む。米も出来ない不毛の地で悲惨な体験をした安任は廃藩置県後、青森県三沢市の郊外に日本最初の洋式牧場を拓きました。イギリスよりプロの牧童を雇い入れ2300町歩(一町歩は
3000坪)の牧場です。明治の初期に近代日本の食生活に寄与することを考えた彼の判断力には敬服します。又彼は斗南を選んだ一人でもあり、大久保利通から明治政府への誘いも断り、最後まで自分は(野にあって国家につくす)事を主張しました。廃藩置県の時は大久保利通の力を借りて、当時青森県に五藩あった藩を津軽藩と合併することにより一つの県にまとめ弘前県が誕生し、其の後青森県になりました。若し大久保利通からの誘いを断っていなければ、新幹線の開通も早かったかもね?明治10年代彼は東京新宿に牧場を拓き、牛を飼いました。え~と言われますが
本当です。吉幾三さんも真っ青です。更に明治20年代には自分の息子と小池、小林(斗南士族の若者達)をアメリカへ馬と牛の買い付けに向かわせました。一ヶ月貨物船に揺られサンフランシスコの港へ着いた彼等は日本とあまりにも違う文明社会に目を疑いました。出迎えたのはサンフランシスコの牧場主で、6頭立ての馬車だったそうです。牧場主の歓迎を受け、食卓の御馳走を見た時、
斗南との御馳走の差の大きさに驚いた様です。日本はまだ武士、アメリカはカウボーイの時代でした。

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