これは戊辰戦争の記録です。日記を書かれた人物は複数人ですが原文のまま
投稿してみました。
注釈
御霊櫃峠 郡山市の近く
朔日 月初め1日のこと
御筒 鉄砲
扣 控の異体字
三ツハントウ白磨御筒 鉄砲の種類(火縄銃)
丸玉 鉄砲の弾
管、替火つ 銃に点火する時の部品
壱=1
弐=2
壬 (みずのえ)
普請方 城内外の修築をした労働者並びに大工
胴乱 皮、布製の腰に下げる袋
母衣(ほろ)役 カバー、守る人、のぼりを持つ役
趣 お考え、意向
御情扶持 手当て
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その1
慶応四辰五月朔日同六日三森御陣屋へ引移ル
御渡御筒並ニ付属之品扣
1、弐拾挺 三ツハントウ白磨御筒
1、弐拾 胴乱
1、弐拾 背負皮
1、弐拾 三俣
1、弐千 丸玉
1、三千 管
1、弐拾 替火つ
右之通請取申候以上 北嶋松四郎
壬四月廿八日 古川代次郎
大炮打手御渡金之扣
北嶋松四郎、荒川鷹治、武藤善治細裂之者〆但壱人前壱両ツツ
外ニ壱人前壱分ツツ宿料金〆三両三分
磯田庄三郎、荒井寅之助、大竹熊三郎、古川代次郎、安部門次郎、樋口善吉、小林庄蔵
荒井佐膳〆八人但し、ゑり裂之者壱人前三分ツツ
外ニ壱人前壱分ツツ宿料金〆八両也
右之通り相渡申候以上
請取人 荒井寅之助
同 古川代次郎
*明治13年6月20日戊辰戦死者13回忌招魂祭追善咏歌
(10代から20代の若い人達の短歌です)
君か為め死出の山路を越えてこそ千歳に香る名は残りけり
森 ときゑ子
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その2
御渡金之扣
1、拾七両壱分 弐拾人分
内壱人 壱両ツツ 細裂之上(身分)
内壱人 三分ツツ ゑり裂(身分) 拾壱人
1、五両 弐拾人分
内壱人壱分ツツ 宿料金
大炮打ノ手之者共へ
五月二日
1、かん五拾ツツ七人分名々渡す
八日
1、玉薬四十発ツツ七人分、小林庄蔵江合渡(へ渡す)
、但今日御呼成ニ付(呼ばれて)、三代御本陣へ罷成候処(行ったところ)
左之通今処分(今後のやりかた)被仰付候間(仰せつけられたが)、今御知も可有御座候得共(今後御通知があるであろうから)、御心得被為申上候(そのつもりで、いてください) 以上
五月
御霊櫃 杉田隊五拾人組
地方弐拾九人組
三森峠 坂部隊、地方(じかた)、猟師、大炮打手書上之者
追分峠 遊撃隊、御普請方
鶏峠 純義隊、塩見仙吾
津田範三様
此度坂部三十朗義三森守衛相勤なから御霊櫃峠両処守衛申聞(きかせ)明日
人数召従二日出張(出陣)致候事、壬四月二十八日、母衣役、津田範三御附被成候事(おつけなされそうろうこと)但
百人を十所におき備こそ
千の敵にも打勝ときけ
戊辰戦死者十三回忌招魂祭追善咏歌
鳴けや鳴け山ほとときす声そえて
なき人まつる、さみたれの空
木間なか子(十三歳)
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その3
五月五日
1、三両弐分 不時(無事)金受取る、 役人加藤平左衛門より、但し御霊櫃峠ニテ 坂部三十朗
五月五日
1、横沢村善吉と申す者、白川表探索申し付け、郡山、本宮辺迄罷出候様(まかりいで、そうろうよう)ニ候 以上
五月五日
1、新妻籐助着致ニ付、御渡金壱両壱分相渡候 以上 但大炮懸り(係)
八日
1、小川定次郎着致しに付き御渡し金壱両壱分相渡(あいわたし)候 以上
御霊櫃峠詰 隊長 杉田兵衛
正隊長 荒川栓太郎、山口 勇、森幾右衛門
1、五月五日
御霊櫃峠青龍隊交代相成候(あいなりそうろう) 以上
地方無役、新兵衛倅、満田左司間
中地御鼻、番助之倅、取締役被仰付候。 鈴木 勇
中地口御番所出入り 渡部七朗
右三人者共三森峠江(へ)五月九日より出張に相成候 以上
口上之覚
1、以書付奉願上候(書き付けをもって、願い上げたてまつりそうろう)。此の度大炮打ち手、
弐拾人お渡しに相成り候所、右人別(名簿)の内、御情扶持、新妻籐助と申す者に、此の
節四境に御人数に罷りいで候者御情扶持者共へ御情扶持を被召抜、右役々被仰付候
趣傳承致候趣にて、手元迄申しいで候所、一統被仰付候義も御座そうらはば、籐助義も
厚く御吟味之上御情扶持被召抜、大炮打ち手に被成替候様奉願上候。 以上
辰五月十五日 坂部三十朗
徒らに世には残れとある甲斐もなみたなからに忍ふけふかな
橋爪瀧江子
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その4
以書付奉願上候。此節不正之気候に付病人次第に出来申候ニ付先置?而申迄ハ三代口小池隊
付之医師罷有先置?而申宮川戦争以来付き添罷越此節病人出来致候も療治も可致候様無之、塩見仙吾留主中厚情事諸事取計候様、頼母殿より被仰付候ニ付医師之義塩見方へ打合申候処
医師之義ハ相願候趣申聞候故、只今迄相扣(ひかえ)罷在候間今ニ何之御沙汰も無御座候。
御霊櫃御陣屋へも医師御渡し無之趣伝承致、畢竟此節御人不足にも可有御座と奉存候。
地方御家人差配之者一同願書申出候ニ付御人不足之此節柄屹度(きっと)御用弁にも相成申と至急ニ
御吟味之上奉願上候 以上 五月 坂部三十朗
月花に風流かりせし往昔を忍へははれぬさみたれのそら
橋爪芳城
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その5
口上之覚
私共仲ヶ間小川定助、親宗彦義医師望月宗僢?門弟ニ罷成御医道修行仕罷在候間
生質篤実成者ニ而病家深切ニ致、近郷ハ勿論遠近御城下迄も広療治致罷有候間
医学之儀ハ本道科中等迄ニ相進み、既ニ老年京都紀州花岡門弟ニ罷成、其の上長崎
迄罷越諸名家相尋療治著敷候者此節柄空敷差置申候段歎敷儀ニ奉存候間兼而仲ヶ間
心安候処より療治受度候間当年ハ別候ヘハ不気候ニ御座候ヘハ湿気にも相請ケ怪我
損傷致候節早速療治致候様被仰付度奉願上候右心附之次第奉言上候故之趣宜様
被伝達被下置度奉存候 以上
五月十五日 堀田兵右衛門 杉原初之助
坂部三十郎様
山裂る飛火の中にきえてこそたけきその名は世にひかりけれ
太田直蔵
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その6
別紙之趣心得其意武藤幾之助申出候可被申聞候 以上
五月二十三日
左之者坂部三十郎へ付属大炮打手相勤候様可被申聞候 以上
五月二十三日
三代口小人 武藤幾之助
別紙之通被伝聞候間此旨可被得其意 以上
五月二十五日 荒川岩之進殿 郡役所
左之者共必坂部三十郎へ付属大炮打手相勤候様可申聞 以上
五月二十四日 浜深口小人善三郎忰(せがれ)
渡部善吾
半沢万五郎
口上之覚
別紙之通被仰付候趣只今相達申上候以書付御請申上候
御覧後本書当人江御渡被下度奉存候 以上
五月二十七日 荒川岩之進
坂部三十郎様
目の前に見ゆる昔の俤(おもかげ)も今日言の葉ときゆるかなしさ
北海漁夫
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その7
口上之覚
当御関所小人半沢万五郎、渡部善三郎忰善吾義ニ付御下宿江
差出候様被仰聞仍而両人差出申候其後日被下度義故 以上
五月二十七日 荒川岩之進
坂部三十郎様
五月二十三日申渡之覚
諸月番
所々戦争之節死傷之者共左之通御手当被成下候但(ただし)疵(きず)ヶ所深浅ヲ顕し
病院見付出候様此旨得其意仲ヶ間并組支配へも可被申聞候事
御家来之軽一統
一、三両 深手之者
一、壱両弐分 浅手之者
町在之者
一、弐両 深手之者
一、壱両 浅手之者
一、三両 死傷之者
〆
御困難ニ付而ハ御家中無給之子弟まて御軍役ニ付召使候処何れとも志ヲ立
夫々之御用向憤発相勤候ニ付左之通御扶持被下候此旨被得其意仲ヶ間并
御軍役相勤候子弟共可申聞候事
一、三人扶持ツツ 花影紐以上
一、弐人扶持ツツ 独札より紐製之子弟
一、壱人半扶持ツツ 甲賀格以下軽之子弟
姿には見えねと曇る俤(おもかげ)をまつるこころの思ひこそしれ
北海漁夫
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その8
五月二十三日
非常御切迫之此節ニ付而ハ御用無之罷在候
面々之志ヲ立申出候ハハ戦地之御用向可被仰成候条
早々可申出候、此旨被得其意仲ヶ間并組支配へも可被
申聞候事別紙利趣被致承知、仲ヶ間へ可被相備候 以上
郡役所
五月二十五日
武藤善四郎殿
1、三代口下番武藤幾之助、浜坪下番渡部善吾同断
半沢万之助大炮打ち手被仰付出張致ニ付御定之通
金壱両ツツ請取申候 以上
坂部三十郎
五月二十三日
兵粮方
此度大炮打手出張致候処御定之通金壱両ツツ御渡
相成候ニ付慥(たしか)ニ受取申候 以上
浜坪小人
血を吐て啼声添ひよほととぎす十まり三とせの五月雨の空
よしき
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その9
五月二十八日
半沢万五郎
渡部善吾
坂部三十郎様
1、二本松領只野村之女壱人参り居候処舟滞村江取抑(おさえ)置候処
先方へ取合及吟味ニ慥ニ只野村商職衆舟津御用橋より被申出候ニ付
右人江添人附三森峠送出申候事
付
五月二十九日
1、御霊櫃峠御出張鈴木大長始荒川健太郎、森幾右衛門、附人六人 合九人
右之通御人数三森峠地乗為見分正月晦日ニ御出張ニ相成候ニ付
御賄差出候事
卯正月晦日
1、濃?共儀峠へ為登候処御霊櫃峠も相下候由三森峠之儀も
六月朔日共相下ヶ申候事
六月朔日
1、金七両弐分也
右之通為探索金鎧小?長より六月二日に請取申候事
思ひ出て昔のけふを忍ふかな あはれ身にしむさみたれのそら
小山田孝清
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