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2012年5月6日日曜日

春の例大祭

むつ市斗南ヶ丘にある妙見神社で春の例大祭がありました。明治3年会津藩士が移住し不毛の大地と格闘した所です。経済的にも困窮を極め、唯一心の拠り所として、参拝したところです。5月5日11時より厳かに神事が執り行われ、玉串を頂きました。
神事の後の直来がすごいんで御座います。
酒が進むほどに、地区の皆様方の歌と踊りが休憩も無く続きます。其の度ごとに餞(はな)
=お金があがります。
気持は青春、身体は老春であります。他人事ですが次の日、足腰大丈夫かな~

2011年1月9日日曜日

費金覚記その2

一金 十二銭五厘   盛岡宿代
一金 二銭       餅
一金 一銭四厘    卵二つ
一金 一銭       盛岡博覧会切手代
一金 一銭二厘      草靴1足
一金  十八銭五厘  花巻駅より黒沢尻まで人力車四里
一金 一銭七厘    橋銭
一金 二銭       菓子
一金 七厘       舟渡
一金 八厘  昼飯の節汁一膳 
一金 十二銭五厘   郡山駅宿代 
一金 一銭六厘     同駅にてぬけ首見物代
一金 十二銭五厘    水沢駅宿代 
一金 九銭        同駅より前沢まで人力車二里あまり 
一金 一銭四厘     卵二つ 
一金 三銭        昼飯の節肴汁代 
一金 三銭        有壁駅より金成駅まで馬一里
一金 十二銭五厘   築館駅宿代 
一金 一銭二厘    卵二つ 
一金 三厘       餅一つ 
一金 二銭       餅一膳 
一金 六厘       芋二皿 
一金 六銭       昼飯代 
一金 十五銭     荒屋駅より三本木駅まで人力車二里 
一金 六十一銭   三本木駅より松島まで人力車十里あまり
一金 一銭五厘   まんじー(まんじゅう) 
一金 十五銭    松島宿代 
一金 一銭二厘  紙一状 
一金 四銭三厘  松島より塩釜駅まで舟 
一金 六銭二厘  同駅にて昼飯 
一金 一銭五厘  松島寺宝物案内 
一金 五厘     塩釜一の宮参詣賽銭
一金 八厘     卵一つ
一金 十銭     人力車二里あまり
一金 一銭五厘  車夫酒代
一金 二銭     郵便切手
一金 一銭八厘  松島にて絵図今これに記す
一金 三厘     舟渡
一金 三銭     正宗公墳墓案内銭
一金 三厘     橋代
一金 一銭五厘  筆一本
一金 六銭二厘五毛  牛肉一鍋
一金 五銭     ヨージ
一金 一銭五厘  歯磨き粉一袋
一金 三十銭   仙台宿代
一金 六銭五厘  同宿昼飯
一金 一銭     草靴一足
一金 十銭    仙台より岩沼まで馬車四里半
一金 一銭  草靴一足
一金 二銭七厘  槻木駅昼飯ならびに汁
一金 十五銭   白石村宿代
一金 二厘    小休    茶代
一金 一銭    餅四つ
一金 四厘    舟渡
一金 二厘    橋銭 
一金 一厘    小休茶代 
一金 一銭    昼飯の節汁一膳代 
一金 十五銭  福島駅宿代 
一金 八厘   同駅卵一つ 
一金 一銭   甘酒二杯 
一金 一銭   同駅にて草靴一足
一金 二銭六厘  昼飯の節汁、肴 
一金 四厘    蓮根二切 
一金 五厘    橋代 
一金 十五銭  二本松宿代 
一金 一銭   草靴一足
一金 二銭六厘  納豆餅二膳
一金 四厘    橋銭二度
一金  六厘   卵一つ
一金 八厘   昼飯の節汁一膳
一金 二厘   乞食に与える
一金 十銭   須川沢より矢吹駅まで馬二里
一金 十三銭五厘  矢吹駅宿代
一金 一銭一厘   甘酒
一金 八厘      橋銭四度
一金 五銭五厘   白坂昼飯
一金 十銭      同駅より鍋掛まで馬六里
一金 十三銭五厘  鍋掛駅宿代 
一金 一銭三厘   草靴 
一金 一銭六厘五毛  菓子 
一金 一銭      薩摩芋 
一金 七厘五毛   筍(たけのこ) 
一金 六厘      卵一つ 
一金 二十三銭   佐久山駅より阿久津駅まで人力五里二十丁ほど 
一金 一銭    車夫酒代 
一金 六厘    橋銭四度 
一金 二銭    餅 
                                          その3へ続く 
 

2011年1月5日水曜日

藩名(斗南藩)の由来

私の曽祖父は会津藩士でした。ペリー来航後の日本は尊王攘夷(天皇を尊び外国を排除する)派の浪人達が京都の町へ集まり徳川幕府の佐幕派(外国を受け入れる)の人達との争いが激しくなってきました。そこで徳川幕府は京の町の治安を守る為、会津九代藩主松平容保公を京都守護職として上洛させました。そのときの会津藩家臣1000名の中の一人でした。その後鳥羽伏見の戦いから戊申戦争(会津戦争)へ発展し、会津藩は取り潰しになりましたが、家臣達の懸命な努力により
敗戦から一年後会津藩の再建が新政府より許可されました。その新しい藩名が(斗南藩)です。
藩主は容保(かたもり)の子供(嫡子)容大(かたはる)でした。

以下が斗南藩の藩名の由来ですが第一の説は一般的な説で、第二の説は青森県に残った子孫が代々先祖から口頭で聞かされてきた説です。

第一の説
『北斗以南皆帝州』
北斗七星より南の大地は皆天皇が住む領地である、従って我々は会津から挙藩移封されたが此処最果て陸奥の国も北斗七星より南にあるから天皇の住む国にかわりは無い。

第二の説
『南斗六星を語源にする』
南斗六星は射手座の中央にあり、射手座の番人であるが(ギリシャ神話)射手座は天帝を守る為に隣のサソリへ弓矢を向けている。これは会津藩が当時の考明天皇を守る為に薩摩、長州へ弓矢を向けているといわれている。

*第二の説について、これは140年前に先人が作った歴史と受け取ってもらいたいと思います。