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2012年5月5日土曜日

水芭蕉

大間町の農道際より、凡そ200メートル長さで水芭蕉の大群生地があります。花言葉は知りませんが、この真っ白い大きな純粋無垢な花を見ていると、世の中の嫌なこと等、一瞬忘れてしまいます。嘘だと言う方は是非一度御覧あれ。当地の見ごろは連休一週間前位かな~

交流会

5月4日仙台、東京方面在住の戊辰戦争研究会のメンバーが10名で、本州最北端にある私経営の資料館までやって来ました。隊長は遊軍寄合組隊長の小池氏。小池氏の呼び掛けで大雨注意報も無視!
特別、会津、斗南の歴史に熱い人達です。其れもその筈です、その半分の方々は会津藩士の子孫になります。さらにそのうち3名の方々の先祖は明治3年私達と同じ斗南藩士として、下北へ来ていたのです。話はそれで終わる訳にはいきません、小池氏等の希望で是非、斗南会津会のメンバーと懇親会を、と言うことで、さらに場所をむつ市へ移し、総勢17名の大宴会になりました。
会津へ同じ想いを持つ者同士の会話は、時間がいくらあっても足りません。全員兄弟、親類のようなものです。歌謡下北哀史を聞き、全員涙を堪えましたが私はダメでした。これを機に仙台場所か
東京場所もとの声がでました。本当に又会いたいです。

2011年1月7日金曜日

費金覚記(明治11年下北から東京までの道中記)その1

明治4年7月明治政府は廃藩置県を断行した為斗南藩士は全国へ散っていった。明治3年会津から岩手県北と青森県の斗南藩領へ移住した藩士と家族総数は17,300人と言われているが廃藩置県と同時に10,000人の人々が斗南藩領を去ったといわれている。その中で山川浩(大蔵)はじめ数人の藩士は東京で塾を開いた。斗南藩大属を勤めた沢二郎(全秀)もその一人であるが青森県に残った藩士の子供達は勉学の為東京の塾をめざした。この記録は私の祖父重功(11歳の時下北へ移住)が18歳の時(明治11年)、沢全秀の紹介で東京小石川の家塾、同人社へ入学のため田名部(むつ市)駅を徒歩で発し東京までの費用を克明に記録したものです。同人社は明治6年に中村敬宇が邸内に開いた家塾で慶応義塾と共に幾多の英才をだしました。

*此処で云う駅は電車の停まる駅ではなく荷馬車の引き継ぎと宿のあるところです。
*一毛の10倍が一厘。一厘の10倍が一銭。一銭の100倍が一円の時代です。
*一万円持って明治十一年の世界へタイムスリップしてみませんか?四年一ヶ月宿泊
 出来ますよ!!
以下が当家に残っている「費金覚書」の本文になります

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明治11年但し寅年也   雑  費金覚記 第四月二十五日より   木村氏
青森県管轄第六大区一小区田名部駅より東京府までの費金を左に記す

一金七厘     奥内村にて玉子一つ
一金七厘五毛  同駅にて帆立貝
一金二厘五毛  同駅漬物代
一金一銭二厘五毛 有畠村にて飴
一金十五銭   横浜駅(上北郡)宿代
一金二銭    同駅茶代
一金三十一銭二厘五毛  同駅より野辺地駅まで馬七里程
一金一銭    草靴一足
一金六厘    玉子一つ
一金十五銭   七戸駅宿代
一金一銭二厘 同駅にて玉子二つ 
一金二銭    昼食の節肴代(おかづ代)
一金一銭五厘 六戸駅にてあん取り
一金三銭三厘三毛 野辺地駅昼食の節肴
一金十五銭 五戸駅宿代
一金一銭  同駅卵代
一金三厘三毛  浅水駅にて昼食の節茶代
一金一銭  三戸駅にてウンドン(うどん)一膳
一金一銭一厘  同駅にてマンジー(饅頭)
一金一銭二厘  釜沢にて草靴一足
一金十銭     同駅より福岡駅まで馬三里
一金十五銭   福岡駅宿代
一金一円二十五銭一厘  同駅名産貝付き硯(すずり)ならびに筆、紙
一金五厘    同駅にて玉子一つ
一金一銭五厘 同駅にてまんま(ご飯)取
一金九銭    コジヤ村より中山村まで馬三里ほど
一金八厘    煎餅二つ
一金一銭二厘 北上村にて蕨餅(わらびもち)二つ
一金十五銭   沼宮内村宿代
一金二十銭   同駅より渋民村まで人力車四里
一金二銭    福岡駅にて郵便切手
一金一銭五厘 草靴一足
一金八厘    あまさけ一はい
一金四厘    煎餅
一金三厘    梅漬三つ
一金一銭    昼飯の節汁二膳
                                               その2へ つづく

2011年1月5日水曜日

藩名(斗南藩)の由来

私の曽祖父は会津藩士でした。ペリー来航後の日本は尊王攘夷(天皇を尊び外国を排除する)派の浪人達が京都の町へ集まり徳川幕府の佐幕派(外国を受け入れる)の人達との争いが激しくなってきました。そこで徳川幕府は京の町の治安を守る為、会津九代藩主松平容保公を京都守護職として上洛させました。そのときの会津藩家臣1000名の中の一人でした。その後鳥羽伏見の戦いから戊申戦争(会津戦争)へ発展し、会津藩は取り潰しになりましたが、家臣達の懸命な努力により
敗戦から一年後会津藩の再建が新政府より許可されました。その新しい藩名が(斗南藩)です。
藩主は容保(かたもり)の子供(嫡子)容大(かたはる)でした。

以下が斗南藩の藩名の由来ですが第一の説は一般的な説で、第二の説は青森県に残った子孫が代々先祖から口頭で聞かされてきた説です。

第一の説
『北斗以南皆帝州』
北斗七星より南の大地は皆天皇が住む領地である、従って我々は会津から挙藩移封されたが此処最果て陸奥の国も北斗七星より南にあるから天皇の住む国にかわりは無い。

第二の説
『南斗六星を語源にする』
南斗六星は射手座の中央にあり、射手座の番人であるが(ギリシャ神話)射手座は天帝を守る為に隣のサソリへ弓矢を向けている。これは会津藩が当時の考明天皇を守る為に薩摩、長州へ弓矢を向けているといわれている。

*第二の説について、これは140年前に先人が作った歴史と受け取ってもらいたいと思います。