2011年3月7日月曜日

お裕叔母さんの事

お裕叔母さんは、会津から移封された私の曽祖父木村幸蔵の長女で数え六歳の時、下北へ来ました。木村幸蔵は斗南藩で史生と云う職務にありましたが廃藩置県後現在の大間町、風間浦村、佐井村3町村で戸長(今の村長)の仕事に付き、その後曽祖父の長男、重功(しげのり)が後を継ぎ私が四代目で現在に至っています。世間でよく会津武士道云々と耳にしますが私の記憶の中で知る、会津武士道の教え、と言っていいか良く分かりませんが、私は三,四歳頃から、お裕叔母さんが亡くなった(昭和22年没)前日まで、一日一時間位正座させられ、昔の武勇伝や義に殉ずる人の話(今思えば)を本を読みながら講談の様な口調でお裕叔母さんから聞かされましたが、今でも脳裏に残っているのが赤穂四十七士の話と白虎隊の話です。青森県三戸町の観福寺には白虎隊士の墓もあり、斗南藩士の書き物に(南に赤穂四十七士の忠臣義士あり、北に白虎隊の忠勇無比なるあり)と書かれています。ろくでなしの私はその意味が良く分からないまま、日々を過ごしておりました。、そんななかでも、お裕おばさんは、良く木村家の山へ、リンゴや、キノコ、桑の実を採りに連れていきました。桑の木は養蚕の為会津から其の技術を学び植えたもので、当時米も獲れない不毛の斗南には適していたものと思われます。その名残が現在も木村家の山林に2本だけ残っております。
又お裕叔母さんは、働き者で朝から晩まで真っ黒になって畑仕事に精を出し、天気の悪い日は
いつも読書をしていた記憶があり、会津では女子も幼少の頃から文武両道の教育を受けたのかなーと云う印象を年頃になって、強く思うようになりました。女子供や目下の者が上を敬う気持ちもはっきりしていて、祖父の時代までは食事も祖父だけは別格で、一人だけ角膳を使っていたようです。下を思い上を敬う会津女の素晴らしさが今も心に残っています。

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