上、呑香(どんこ)稲荷神社。むつ市落野沢地区。柴五郎や兄五三郎、が寝泊まりし、長男太一郎も一緒に談話した場所と思います。勧請年号は1767年。場所はむつ市の運動公園に隣接したところにあります。が史跡の案内表示が小さすぎて、余程注意して見ないと分かりません。田名部町の旧家山本家の先祖、七代市朗兵衛がこの地域の開墾を始めた頃、神信仰が深かった市朗兵衛が五穀豊穣と農民の無病息災を祈願して、建立したものと考えられている。社殿には文政八年と十年に奉納された、短歌額があり、選者に当時の海産物問屋の第九代山本理左衛門の名もしるされている。この社殿は昭和46年に建て替えられたが、旧柱3本が社殿の中に置かれ、長男太一朗が詠んだ歌が記されているが、五郎が陸軍大将を退官した後、昔を忍び落野沢を訪れた時、この柱に書かれた、太一郎の歌に感動し、三本目の柱の下に自分も記した歌である。
さすらいて身をば落の沢ずまひ
かりまくら
月日もふればさながらに
名残もおしく
かまぶせの山
はらからの
昔をここにしのぶかも
おとしの沢の水くきのあと
五郎
(斗南会津会事務局長、山本源八調べ)
上、柴五郎(明治3年下北へ移住時、12歳)と父佐多蔵、長男太一郎と妻すみ子が借家した、新田初五郎の家があった場所。呑香稲荷神社から70mの距離。住むに畳無く、むしろを敷き、建具は紙無く、米俵を縄で結び、釜臥おろしのマイナス15度の寒風をしのぎ、五郎は裸足だったと言う。食物も無く20日間犬の肉を食べたと言われている。柴五郎は、廃藩置県後、青森県庁の給仕を経て上京、つらい下僕の生活の中でも自分を見失う事なく努力を重ね、その後15歳で陸軍幼年学校へ入学、更に士官学校を経て、日本陸軍の最高峰である
陸軍大将まで登りつめた、会津武士道の極をきわめた人物の一人だと思います。昭和20年永眠
更に下方50mの距離に小荒川の渓流が今も変わらずに、清らかな音をたてて流れています。五郎一家はこの小川で水を汲み、洗いものをした事でしょう。
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