2011年3月26日土曜日

大東亜戦争の爪跡

砲台への弾薬通路
大間要塞について
明治37年2月5日、日露の国交が断絶、10日に宣戦の詔勅が発せられた。最初ロシアの船が大間沖に現れたのは文化4年5月である。南部藩は急遽下北全域の沿岸に37挺の大砲を備えた。
大間に8挺、材木(大間町内)に1挺を備え、高磯(大間町内)の台場に陣屋を置き、盛岡の兵隊が
警備についた。日露戦争は終わったが明治41年11月大間要塞の設置が正式に大間町へ伝えられ
東久邇宮様が要塞を視察に来られたのである。大間要塞は軍艦の2連40センチ砲で装備され、折戸(隣村の風間浦)に監視哨があり、沖合に筏を引いて目標とし、砲撃の練習をしたという。然し実戦は無かった。終戦後進駐したアメリカ軍によって破壊され、今は昔の姿はない。尚日露戦争で
バルチック艦隊が津軽海峡を通過した時、郵便局をやっていた、私の祖父が軍本部へ電報で知らせたと云われている。大間高校の敷地内にあります。
すぐ近くに機関銃の射撃場
物品保管庫

 昭和20年7月14日午後2時36分、米軍艦載機と交戦し、激闘の末、乗員135名の勇士、
 艦と共に津軽海峡に眠る。

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