2011年6月11日土曜日

新島 襄

新島 襄
同志社大学の創立者。幕末封建制度下の日本の制約された教育を体験した彼は、維新後の日本の新しい教育を胸に、単身国禁を破りアメリカへ密航すべく、北海道函館へ向かっていたが、津軽海峡で大時化に合い、下北郡下風呂港へ避難した。時化は数日に及び、彼は下風呂の温泉で時化の収まるのを待った。下は彼の上陸を記念し風間浦村が建立した記念碑であるが、写真を撮ったつもりが、逆に新島襄に写されていました。当時新島襄もデジカメ持っていたかも??
山本八重子の事
官軍の砲弾を一日2800発も受け会津藩は降伏しましたが、落城後の城壁に残された山本八重子の詩(あすの夜は何国の誰か眺むらん、なれし御城に残す月影)父権八は鶴ヶ城攻防戦で戦死兄山本覚馬は洋式兵学、蘭学を学び、蛤御門の変では覚馬の砲術が偉大な力を発揮した。後に新島襄に協力し、その後京都府会議長を勤める。八重子は新島襄の妻になる。

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