2013年2月5日火曜日

斗南藩の夢

明治3年新天地をめざし、会津藩士と家族や職人合わせて17000人強が青森県へ移住してきました。最初は県南の五戸の南部藩代官所跡に藩庁をおきましたが、いろいろ調べてみると、その時点で斗南藩の上層部では、とてつもない理想郷を夢見ていたことが想像されてきます。
現在はむつ市大湊の港湾は海上自衛隊の艦船が多数停泊していますが、昔から安渡港(大湊)は天然の良港として知れれていました。斗南藩執行部は当時函館や長崎のような、国際的な貿易港を模索していたと思われます。その一が小川原湖からむつ湾迄の運河の計画がありました。当時の土木技術を見ても容易に納得出来ます。御存知の白虎隊が飯盛山へ抜けてきた洞門を流れる清水は猪苗代湖から流れて来ているからです。又尻屋崎は津軽海峡最大の難所だったため、斗南藩ではいち早く明治政府へ灯台の設置を請願しました。その為明治9年に灯台が完成しています。輸出品として、大阪城にも使用された下北ひば、当時も中国へ送られていた下北の、アワビの干物、フカヒレ、イワシの肥料等いろいろ、当時はまぐろを釣る技術も道具も無かった。若し廃藩置県が無かったら、下北も大分違っていたかもね?今日も会津から私とあまり変わらない、若いご夫婦が?北斗以南皆帝州まで、おいでになりました。感動です。

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