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2011年1月16日日曜日

費金覚記 その3

一金 十四銭五厘  阿久津駅宿代  
一金 四銭      昼飯代
一金 十八銭    阿久津駅より久保田駅まで舟三里
一金 一銭     船頭酒代
一金 一銭三厘  草靴一足
一金 八厘     卵一つ
一金 三十五銭  久保田駅より境駅まで人力七里
一金 一銭     車夫酒代
一金 七厘五毛  センベイ
一金 一銭五厘  菓子
一金 十九銭   境駅半旅篭並びに同村より東京大橋迄舟
一金 八厘    同所より両国橋まで舟
一金 四銭五厘 朝飯
一金 二銭    船中布団代
右田名部駅より東京までの路金合計金八円七十四銭七厘六毛
ただし内一円二十五銭一厘は不入用具石硯
こりより東京着後入塾まで
一金 一銭五厘    菓子
一金 十六銭五厘  東京馬喰町宿代
一金 六銭二厘五毛  同宿昼飯
一金 二銭   半紙一状
一金 二十銭  足駄並びに緒
一金 一銭七厘  日本橋あたりまで遊歩の戻りの節、人力
一金 十銭    同宿より澤氏まで人力
一金 二銭    車夫酒代
一金 十六銭  足袋一足
一金 十二銭五厘  金米糖(コンペイトウ)一箱澤氏へ
一金 八十四銭   袴仕立てたる品、但しのり付きにあらず
一金 二十銭    原田氏へ
一金 十銭     郵便切手ならびにハガキ
一金 八銭     上野駅より新橋シテーションまで人力車
一金 三十銭    新橋シテーションより横濱シテーションまで汽車
一金 五銭     シテーションより和田氏まで人力車
一金 二円   和田氏へ        
一金 三十銭  和田祖母様方、乳汁一ブリキ(一缶)   
一金 五銭  横浜より神奈川シテーションまで人力
一金 二十五銭  神奈川シテーションより新橋シテーションまで汽車
一金 二十五銭  旧知事公(松平容大は数え十歳)に献ず
一金 五銭  シテーションより人力車
一金 十九銭三厘五毛  鰻飯二膳並びに泉岳寺案内賃
一金 二銭  新書筆一本
一金 十四銭五厘  足駄ならびに緒共に
一金 四銭  そば五膳
一金 八厘  入湯一度
一金 二銭五厘  澤小児方へ手土産
一金 六厘   エ門竹一本(衣紋竹)
一金 二銭   卵二つ
一金 二十銭  櫃(ご飯を入れるひつ)
一金 四十銭  机
一金 五十五銭  白ジ木綿一反
一金 一円四十五銭  紺カスリ一反
一金 二十銭  右二反の裏ならびに肩えり
一金 七銭一厘  散髪
一金 五銭  錠
一金 六十銭  シャップ(帽子)
一金 二銭  郵便切手
一金 三銭  塵紙
一金 二銭  郵便切手
一金 十二銭  水呑大コップ一つ
一金 一銭  郵便ハガキ
一金 四銭  蕎麦五膳代
一金 十銭  薩摩芋澤氏へ
一金 十銭  スシ並びに菓子茶代
一金 五十銭  茶一斤
一金 二厘  橋代
一金 六銭  単衣一枚仕立賃
一金 二銭  半紙一状
一金 三銭  植木セキジク二鉢
一金 七銭五厘  写真六枚代ただし人物書共
一金 四銭  浅草遊歩の節生人形二度見物
一金 一銭五厘  菓子澤小児へ
一金 六厘  浅草寺賽銭
一金 九厘  カンノン札三枚
一金 一銭五厘  貝造見世物 
一金 一銭五厘  首切り見物
*首切りとはマジックショーの事だと思います。

2011年1月10日月曜日

斗南夜話(首なし地蔵)

明治四年廃藩置県により旧会津九代藩主容保(かたもり)公は養子喜徳(15代将軍慶喜の弟)と共に斗南藩主(息子容大3歳)を迎えに東京品川より蒸気船で太平洋を北上、函館港へ入り、その後南下の航路をとり北郡(青森県下北郡)の佐井港へ渡り、馬で田名部(むつ市)の円通寺(斗南藩仮藩庁)へ四年七月二十四日安着した。
容保(かたもり)公は、旧家臣達との別れを惜しみ一ヶ月間滞在し、八月二十五日円通寺を発し東京へ向かった。尚護衛のため新撰組三番隊、隊長斎藤 一も同行した。
翌二十六日、田名部の原野に於いて斗南藩士七名が贋札を製造した罪で明治新政府に依り斬首された。
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処刑を見に行った町民の話によると、七人共会津藩士に相応しい立派な最期だったと伝えられている。当時他藩に於いても贋札は横行していたが会津藩士だけがみせしめの為に犠牲にされた史実を今も寒い冬の夜、語り継がれています。田名部の郊外の小さな祠(ほこら)に数年前まで首の無い地蔵様が七体あったが、現在はなぜか見当たりません。どうしたのでしょうか?

2011年1月9日日曜日

費金覚記その2

一金 十二銭五厘   盛岡宿代
一金 二銭       餅
一金 一銭四厘    卵二つ
一金 一銭       盛岡博覧会切手代
一金 一銭二厘      草靴1足
一金  十八銭五厘  花巻駅より黒沢尻まで人力車四里
一金 一銭七厘    橋銭
一金 二銭       菓子
一金 七厘       舟渡
一金 八厘  昼飯の節汁一膳 
一金 十二銭五厘   郡山駅宿代 
一金 一銭六厘     同駅にてぬけ首見物代
一金 十二銭五厘    水沢駅宿代 
一金 九銭        同駅より前沢まで人力車二里あまり 
一金 一銭四厘     卵二つ 
一金 三銭        昼飯の節肴汁代 
一金 三銭        有壁駅より金成駅まで馬一里
一金 十二銭五厘   築館駅宿代 
一金 一銭二厘    卵二つ 
一金 三厘       餅一つ 
一金 二銭       餅一膳 
一金 六厘       芋二皿 
一金 六銭       昼飯代 
一金 十五銭     荒屋駅より三本木駅まで人力車二里 
一金 六十一銭   三本木駅より松島まで人力車十里あまり
一金 一銭五厘   まんじー(まんじゅう) 
一金 十五銭    松島宿代 
一金 一銭二厘  紙一状 
一金 四銭三厘  松島より塩釜駅まで舟 
一金 六銭二厘  同駅にて昼飯 
一金 一銭五厘  松島寺宝物案内 
一金 五厘     塩釜一の宮参詣賽銭
一金 八厘     卵一つ
一金 十銭     人力車二里あまり
一金 一銭五厘  車夫酒代
一金 二銭     郵便切手
一金 一銭八厘  松島にて絵図今これに記す
一金 三厘     舟渡
一金 三銭     正宗公墳墓案内銭
一金 三厘     橋代
一金 一銭五厘  筆一本
一金 六銭二厘五毛  牛肉一鍋
一金 五銭     ヨージ
一金 一銭五厘  歯磨き粉一袋
一金 三十銭   仙台宿代
一金 六銭五厘  同宿昼飯
一金 一銭     草靴一足
一金 十銭    仙台より岩沼まで馬車四里半
一金 一銭  草靴一足
一金 二銭七厘  槻木駅昼飯ならびに汁
一金 十五銭   白石村宿代
一金 二厘    小休    茶代
一金 一銭    餅四つ
一金 四厘    舟渡
一金 二厘    橋銭 
一金 一厘    小休茶代 
一金 一銭    昼飯の節汁一膳代 
一金 十五銭  福島駅宿代 
一金 八厘   同駅卵一つ 
一金 一銭   甘酒二杯 
一金 一銭   同駅にて草靴一足
一金 二銭六厘  昼飯の節汁、肴 
一金 四厘    蓮根二切 
一金 五厘    橋代 
一金 十五銭  二本松宿代 
一金 一銭   草靴一足
一金 二銭六厘  納豆餅二膳
一金 四厘    橋銭二度
一金  六厘   卵一つ
一金 八厘   昼飯の節汁一膳
一金 二厘   乞食に与える
一金 十銭   須川沢より矢吹駅まで馬二里
一金 十三銭五厘  矢吹駅宿代
一金 一銭一厘   甘酒
一金 八厘      橋銭四度
一金 五銭五厘   白坂昼飯
一金 十銭      同駅より鍋掛まで馬六里
一金 十三銭五厘  鍋掛駅宿代 
一金 一銭三厘   草靴 
一金 一銭六厘五毛  菓子 
一金 一銭      薩摩芋 
一金 七厘五毛   筍(たけのこ) 
一金 六厘      卵一つ 
一金 二十三銭   佐久山駅より阿久津駅まで人力五里二十丁ほど 
一金 一銭    車夫酒代 
一金 六厘    橋銭四度 
一金 二銭    餅 
                                          その3へ続く 
 

2011年1月7日金曜日

費金覚記(明治11年下北から東京までの道中記)その1

明治4年7月明治政府は廃藩置県を断行した為斗南藩士は全国へ散っていった。明治3年会津から岩手県北と青森県の斗南藩領へ移住した藩士と家族総数は17,300人と言われているが廃藩置県と同時に10,000人の人々が斗南藩領を去ったといわれている。その中で山川浩(大蔵)はじめ数人の藩士は東京で塾を開いた。斗南藩大属を勤めた沢二郎(全秀)もその一人であるが青森県に残った藩士の子供達は勉学の為東京の塾をめざした。この記録は私の祖父重功(11歳の時下北へ移住)が18歳の時(明治11年)、沢全秀の紹介で東京小石川の家塾、同人社へ入学のため田名部(むつ市)駅を徒歩で発し東京までの費用を克明に記録したものです。同人社は明治6年に中村敬宇が邸内に開いた家塾で慶応義塾と共に幾多の英才をだしました。

*此処で云う駅は電車の停まる駅ではなく荷馬車の引き継ぎと宿のあるところです。
*一毛の10倍が一厘。一厘の10倍が一銭。一銭の100倍が一円の時代です。
*一万円持って明治十一年の世界へタイムスリップしてみませんか?四年一ヶ月宿泊
 出来ますよ!!
以下が当家に残っている「費金覚書」の本文になります

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明治11年但し寅年也   雑  費金覚記 第四月二十五日より   木村氏
青森県管轄第六大区一小区田名部駅より東京府までの費金を左に記す

一金七厘     奥内村にて玉子一つ
一金七厘五毛  同駅にて帆立貝
一金二厘五毛  同駅漬物代
一金一銭二厘五毛 有畠村にて飴
一金十五銭   横浜駅(上北郡)宿代
一金二銭    同駅茶代
一金三十一銭二厘五毛  同駅より野辺地駅まで馬七里程
一金一銭    草靴一足
一金六厘    玉子一つ
一金十五銭   七戸駅宿代
一金一銭二厘 同駅にて玉子二つ 
一金二銭    昼食の節肴代(おかづ代)
一金一銭五厘 六戸駅にてあん取り
一金三銭三厘三毛 野辺地駅昼食の節肴
一金十五銭 五戸駅宿代
一金一銭  同駅卵代
一金三厘三毛  浅水駅にて昼食の節茶代
一金一銭  三戸駅にてウンドン(うどん)一膳
一金一銭一厘  同駅にてマンジー(饅頭)
一金一銭二厘  釜沢にて草靴一足
一金十銭     同駅より福岡駅まで馬三里
一金十五銭   福岡駅宿代
一金一円二十五銭一厘  同駅名産貝付き硯(すずり)ならびに筆、紙
一金五厘    同駅にて玉子一つ
一金一銭五厘 同駅にてまんま(ご飯)取
一金九銭    コジヤ村より中山村まで馬三里ほど
一金八厘    煎餅二つ
一金一銭二厘 北上村にて蕨餅(わらびもち)二つ
一金十五銭   沼宮内村宿代
一金二十銭   同駅より渋民村まで人力車四里
一金二銭    福岡駅にて郵便切手
一金一銭五厘 草靴一足
一金八厘    あまさけ一はい
一金四厘    煎餅
一金三厘    梅漬三つ
一金一銭    昼飯の節汁二膳
                                               その2へ つづく

2011年1月5日水曜日

藩名(斗南藩)の由来

私の曽祖父は会津藩士でした。ペリー来航後の日本は尊王攘夷(天皇を尊び外国を排除する)派の浪人達が京都の町へ集まり徳川幕府の佐幕派(外国を受け入れる)の人達との争いが激しくなってきました。そこで徳川幕府は京の町の治安を守る為、会津九代藩主松平容保公を京都守護職として上洛させました。そのときの会津藩家臣1000名の中の一人でした。その後鳥羽伏見の戦いから戊申戦争(会津戦争)へ発展し、会津藩は取り潰しになりましたが、家臣達の懸命な努力により
敗戦から一年後会津藩の再建が新政府より許可されました。その新しい藩名が(斗南藩)です。
藩主は容保(かたもり)の子供(嫡子)容大(かたはる)でした。

以下が斗南藩の藩名の由来ですが第一の説は一般的な説で、第二の説は青森県に残った子孫が代々先祖から口頭で聞かされてきた説です。

第一の説
『北斗以南皆帝州』
北斗七星より南の大地は皆天皇が住む領地である、従って我々は会津から挙藩移封されたが此処最果て陸奥の国も北斗七星より南にあるから天皇の住む国にかわりは無い。

第二の説
『南斗六星を語源にする』
南斗六星は射手座の中央にあり、射手座の番人であるが(ギリシャ神話)射手座は天帝を守る為に隣のサソリへ弓矢を向けている。これは会津藩が当時の考明天皇を守る為に薩摩、長州へ弓矢を向けているといわれている。

*第二の説について、これは140年前に先人が作った歴史と受け取ってもらいたいと思います。

2011年1月4日火曜日

2月の蕎麦会

2月中頃斗南ヶ丘(むつ市の東の丘陵地帯)で栽培された蕎麦で蕎麦会を計画中です。旧会津藩士の末裔が栽培した蕎麦です。140年の歴史をじっくりかみしめて、みようと思っております。が年々参加者が増えて今年は蕎麦粉が足りなくなるかも?嬉しい悲鳴を挙げております。会員主体ですが数名の参加者は可能かも知れません。連絡先09043192861

2011年の新年を迎えて思うこと

斗南藩ができて140年。

今年も新しい歴史の発掘に意欲を燃やしています