2011年1月5日水曜日

藩名(斗南藩)の由来

私の曽祖父は会津藩士でした。ペリー来航後の日本は尊王攘夷(天皇を尊び外国を排除する)派の浪人達が京都の町へ集まり徳川幕府の佐幕派(外国を受け入れる)の人達との争いが激しくなってきました。そこで徳川幕府は京の町の治安を守る為、会津九代藩主松平容保公を京都守護職として上洛させました。そのときの会津藩家臣1000名の中の一人でした。その後鳥羽伏見の戦いから戊申戦争(会津戦争)へ発展し、会津藩は取り潰しになりましたが、家臣達の懸命な努力により
敗戦から一年後会津藩の再建が新政府より許可されました。その新しい藩名が(斗南藩)です。
藩主は容保(かたもり)の子供(嫡子)容大(かたはる)でした。

以下が斗南藩の藩名の由来ですが第一の説は一般的な説で、第二の説は青森県に残った子孫が代々先祖から口頭で聞かされてきた説です。

第一の説
『北斗以南皆帝州』
北斗七星より南の大地は皆天皇が住む領地である、従って我々は会津から挙藩移封されたが此処最果て陸奥の国も北斗七星より南にあるから天皇の住む国にかわりは無い。

第二の説
『南斗六星を語源にする』
南斗六星は射手座の中央にあり、射手座の番人であるが(ギリシャ神話)射手座は天帝を守る為に隣のサソリへ弓矢を向けている。これは会津藩が当時の考明天皇を守る為に薩摩、長州へ弓矢を向けているといわれている。

*第二の説について、これは140年前に先人が作った歴史と受け取ってもらいたいと思います。

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