2011年1月10日月曜日

斗南夜話(首なし地蔵)

明治四年廃藩置県により旧会津九代藩主容保(かたもり)公は養子喜徳(15代将軍慶喜の弟)と共に斗南藩主(息子容大3歳)を迎えに東京品川より蒸気船で太平洋を北上、函館港へ入り、その後南下の航路をとり北郡(青森県下北郡)の佐井港へ渡り、馬で田名部(むつ市)の円通寺(斗南藩仮藩庁)へ四年七月二十四日安着した。
容保(かたもり)公は、旧家臣達との別れを惜しみ一ヶ月間滞在し、八月二十五日円通寺を発し東京へ向かった。尚護衛のため新撰組三番隊、隊長斎藤 一も同行した。
翌二十六日、田名部の原野に於いて斗南藩士七名が贋札を製造した罪で明治新政府に依り斬首された。
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処刑を見に行った町民の話によると、七人共会津藩士に相応しい立派な最期だったと伝えられている。当時他藩に於いても贋札は横行していたが会津藩士だけがみせしめの為に犠牲にされた史実を今も寒い冬の夜、語り継がれています。田名部の郊外の小さな祠(ほこら)に数年前まで首の無い地蔵様が七体あったが、現在はなぜか見当たりません。どうしたのでしょうか?

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