2011年1月21日金曜日

下北へ来た白虎隊

明治3年斗南藩領(岩手県北より青森県旧南部領)へ陸路、海路で移住してきた、白虎隊の少年達はむつ市の大湊で白虎隊の解散式をやったと、代々云われている。場所は多分ヤンシー号の上陸地以外考えられません。山育ちの会津衆が船酔いに疲れ、死ぬ思いで到着した、安渡港で最初に見たのが巨大な山、釜臥山だったからだと思います。釜臥山は会津磐梯山に非常に良く似ている為、その後旧会津藩士(斗南藩士)達は毎日のように山を見て故郷を偲んでいました。飯盛山で自刃した19名の中で石山寅之助の家族の流れを汲む、むつ市在住の石山さんは私達の同士であり、時々杯を汲みかわしていますし、又私の近所に有る阿弥陀寺のおばあちゃんは青森市のお寺の出身ですが、幼少の頃、有賀ちよ、と云う盲目のおばあちゃんが、その寺にいて、毎日白虎隊の話をしては涙を流していたそうです。おばあちゃんは、針子をしながら飢えを凌いでいるうち、その寺の住職さんの目にとまり、そのお寺さんに世話になっていたようです。19名の中の1人有賀織之助の身内だったのでは?白虎隊士350名と云われているが、ただ1人生き残った、飯沼貞吉(15歳)辞世の句(自刃する為直前に詠んだ句)

梓(あずさ)弓むかふ矢先はしげくとも、ひきなかへしそ武士(もののふ)の道

青森県三戸町の観福寺に明治4年斗南藩士によって建立された白虎隊士の墓があります。

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