2011年1月31日月曜日

新年会

昨夜(31日)斗南藩士18名がむつ市はねやホテルへ集結した。鉄砲も刀も槍も持たず、一升瓶だけぶらさげて。進行役は例によって家老の内藤介右衛門信節、私、斗南藩史生の挨拶の後、市議の菊池氏より市議会での(本人よりの)斗南藩関係の史跡の維持管理や資料館建設に関わる質疑に関する説明があり、その後前会長の乾杯でいよいよ宴会に入りました。が
何といっても人気№1は榮川でした。それもそのはず、会津の酒です。みるみるメモリーは下がりっ放し、あっというまに数本がカラカラ音をたててました。
一時間も経つといよいよ本音がでてきます。話題の主なものはやはり会津から来た先祖の話とこの次は何時会えるかです。仲の良い兄弟よりも深い絆で結ばれている様な気がします。
然し会津人の血は熱い!意見の合わない時は、徹底的に我をとおす!(ならぬものはならぬ?)それでも折り合いがつかない時は抜刀??までは行かない。次の日けろりとしている。
話はそれで収まらない10年後(三分の一はこの世にいないかも?)の150年祭(斗南藩立藩)の事や他県の会津会との交流の話や孫の話、可愛いワンコの話etc
最後は2月の蕎麦会と、その1週間後に岩魚と山女の骨酒を酌み交わす約束をしておやすみしました。

2011年1月28日金曜日

仁和賀山

私は古くから大間の町に伝わる稲荷神社例大祭の山車、大黒様を祭る仁和賀山(にわかやま)の一員です。子供達に郷土芸能を伝達し、町の伝統を守りたいと云う立派な考えを信条としてガンバッテおります。その為山車関係者一統は月に一回定例会という固い名称の、固い会議を、雨がふっても槍が降っても確実に実行しております。でも本州最北端の小さな町は年々高齢化と過疎化が進み一昨日の晩も集まったのは10人程でした。しかし、一通り簡単な会議の後がスゴイ!!
まずお神酒を御馳走になります。そのあとは飲み放題、自由行動(会費制です)、時間が経過すると、ドットコが始まります。ドットコはお祭りの時3000円以上のご祝儀を頂いた家にお礼のお祝いとして掛ける祝いの詩です。古くは北海道の鰊漁で網を引き揚げる時の沖上げ音頭が起源のようです。これを全員で大声で始めるわけです、ですから一年中お祭りをしているわけですね?
世間ではよく祭りバカと云う言葉を耳にしますが、小生は全く気になりません。これをやると、常々溜まったストレスが一瞬に飛んで行ってしまうからです。嘘だと思う方は八月八日からのお祭りに是非ご参加を。大歓迎です。寿、マモちゃん、堅蔵、教授、友哉、皆待ってるよー

費金覚記その4

一金、一銭    氷水一杯
一金、二十五銭   ガラス取写真(ガラス板に写真をとること)
一金、一銭      西南戦争ならびに国名所アブラ絵見物
一金、五銭      澤氏小児方へ菓子
一金、弐銭      札菓子同小児方へ
一金 三厘      生人形を見る節、目鏡代
一金 五銭五厘   牛鍋 一枚ならびに飯一人前
一金、弐銭四厘   菓子
一金、六銭五厘   写真大臣方ノ書
一金、弐銭      郵便ハガキ
一金、六銭      茶碗
一金、十銭五厘   五月二十五日より同三十日まで牛のちち一日五夕(缶コーヒーの半分)ずづ
一金、弐円七十五銭   掛布団
一金、一円八十銭    敷き布団
一金、十三銭五厘    白金巾大々幅、四寸五寸敷き布団の上に敷く品
一金、十四銭       布団えり
一金、四十三銭七厘五毛    ランプ
一金、二銭   箸箱
一金、一銭   箸一膳
一金、十四銭   石版一枚
一金、一銭     石筆一本
一金、八銭     汁椀
一金、五銭     白木綿三尺枕がは(枕カバー)

一金、六銭     澤氏より同人社まで人力車、但し荷物
一金、一円     澤氏へ謝礼
一金、二円     入社金但し入塾する節一度に限る
合計金高
十九円八十三銭四厘五毛
前後合計金高
二十八円五十八銭二厘一毛

裏表紙
此司主人
青森懸管轄第六大区四小区(下北郡北通り)陸奥国北郡大間村
三十五番地
士族    木村重功




























    

2011年1月23日日曜日

御霊櫃峠出陣中日記帳

これは戊辰戦争の記録です。日記を書かれた人物は複数人ですが原文のまま
投稿してみました。
注釈
御霊櫃峠    郡山市の近く
朔日       月初め1日のこと
御筒       鉄砲 
扣        控の異体字
三ツハントウ白磨御筒    鉄砲の種類(火縄銃)
丸玉       鉄砲の弾
管、替火つ    銃に点火する時の部品
壱=1
弐=2
壬 (みずのえ)
普請方    城内外の修築をした労働者並びに大工
胴乱    皮、布製の腰に下げる袋
母衣(ほろ)役   カバー、守る人、のぼりを持つ役 
趣    お考え、意向
御情扶持   手当て   


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その1
慶応四辰五月朔日同六日三森御陣屋へ引移ル
御渡御筒並ニ付属之品扣
1、弐拾挺     三ツハントウ白磨御筒
1、弐拾      胴乱
1、弐拾      背負皮
1、弐拾      三俣
1、弐千      丸玉
1、三千      管
1、弐拾      替火つ
右之通請取申候以上      北嶋松四郎
壬四月廿八日          古川代次郎

大炮打手御渡金之扣
北嶋松四郎、荒川鷹治、武藤善治細裂之者〆但壱人前壱両ツツ
外ニ壱人前壱分ツツ宿料金〆三両三分
磯田庄三郎、荒井寅之助、大竹熊三郎、古川代次郎、安部門次郎、樋口善吉、小林庄蔵
荒井佐膳〆八人但し、ゑり裂之者壱人前三分ツツ
外ニ壱人前壱分ツツ宿料金〆八両也
右之通り相渡申候以上
請取人   荒井寅之助
同      古川代次郎



*明治13年6月20日戊辰戦死者13回忌招魂祭追善咏歌
 (10代から20代の若い人達の短歌です)

君か為め死出の山路を越えてこそ千歳に香る名は残りけり
                            森 ときゑ子
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その2
御渡金之扣
1、拾七両壱分      弐拾人分
  内壱人  壱両ツツ  細裂之上(身分)
  内壱人  三分ツツ  ゑり裂(身分)  拾壱人
1、五両         弐拾人分
  
  内壱人壱分ツツ  宿料金
大炮打ノ手之者共へ
五月二日
1、かん五拾ツツ七人分名々渡す
八日
1、玉薬四十発ツツ七人分、小林庄蔵江合渡(へ渡す)
、但今日御呼成ニ付(呼ばれて)、三代御本陣へ罷成候処(行ったところ)
  左之通今処分(今後のやりかた)被仰付候間(仰せつけられたが)、今御知も可有御座候得共(今後御通知があるであろうから)、御心得被為申上候(そのつもりで、いてください)  以上
五月
御霊櫃   杉田隊五拾人組
       地方弐拾九人組
三森峠   坂部隊、地方(じかた)、猟師、大炮打手書上之者
追分峠   遊撃隊、御普請方
鶏峠    純義隊、塩見仙吾

津田範三様
此度坂部三十朗義三森守衛相勤なから御霊櫃峠両処守衛申聞(きかせ)明日
人数召従二日出張(出陣)致候事、壬四月二十八日、母衣役、津田範三御附被成候事(おつけなされそうろうこと)但

百人を十所におき備こそ
千の敵にも打勝ときけ

戊辰戦死者十三回忌招魂祭追善咏歌

鳴けや鳴け山ほとときす声そえて
なき人まつる、さみたれの空
            木間なか子(十三歳)

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その3
五月五日
1、三両弐分  不時(無事)金受取る、 役人加藤平左衛門より、但し御霊櫃峠ニテ 坂部三十朗
五月五日
1、横沢村善吉と申す者、白川表探索申し付け、郡山、本宮辺迄罷出候様(まかりいで、そうろうよう)ニ候 以上
五月五日
1、新妻籐助着致ニ付、御渡金壱両壱分相渡候 以上 但大炮懸り(係)
八日
1、小川定次郎着致しに付き御渡し金壱両壱分相渡(あいわたし)候 以上
御霊櫃峠詰   隊長 杉田兵衛
          正隊長 荒川栓太郎、山口 勇、森幾右衛門
1、五月五日
御霊櫃峠青龍隊交代相成候(あいなりそうろう)   以上
地方無役、新兵衛倅、満田左司間
中地御鼻、番助之倅、取締役被仰付候。  鈴木 勇
中地口御番所出入り    渡部七朗
右三人者共三森峠江(へ)五月九日より出張に相成候  以上

口上之覚
1、以書付奉願上候(書き付けをもって、願い上げたてまつりそうろう)。此の度大炮打ち手、
  弐拾人お渡しに相成り候所、右人別(名簿)の内、御情扶持、新妻籐助と申す者に、此の
  節四境に御人数に罷りいで候者御情扶持者共へ御情扶持を被召抜、右役々被仰付候
  趣傳承致候趣にて、手元迄申しいで候所、一統被仰付候義も御座そうらはば、籐助義も
  厚く御吟味之上御情扶持被召抜、大炮打ち手に被成替候様奉願上候。 以上
 辰五月十五日                    坂部三十朗


徒らに世には残れとある甲斐もなみたなからに忍ふけふかな
                          橋爪瀧江子



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その4
以書付奉願上候。此節不正之気候に付病人次第に出来申候ニ付先置?而申迄ハ三代口小池隊
付之医師罷有先置?而申宮川戦争以来付き添罷越此節病人出来致候も療治も可致候様無之、塩見仙吾留主中厚情事諸事取計候様、頼母殿より被仰付候ニ付医師之義塩見方へ打合申候処
医師之義ハ相願候趣申聞候故、只今迄相扣(ひかえ)罷在候間今ニ何之御沙汰も無御座候。
御霊櫃御陣屋へも医師御渡し無之趣伝承致、畢竟此節御人不足にも可有御座と奉存候。
地方御家人差配之者一同願書申出候ニ付御人不足之此節柄屹度(きっと)御用弁にも相成申と至急ニ
御吟味之上奉願上候   以上  五月  坂部三十朗


月花に風流かりせし往昔を忍へははれぬさみたれのそら
                        橋爪芳城
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その5
口上之覚
私共仲ヶ間小川定助、親宗彦義医師望月宗僢?門弟ニ罷成御医道修行仕罷在候間
生質篤実成者ニ而病家深切ニ致、近郷ハ勿論遠近御城下迄も広療治致罷有候間
医学之儀ハ本道科中等迄ニ相進み、既ニ老年京都紀州花岡門弟ニ罷成、其の上長崎
迄罷越諸名家相尋療治著敷候者此節柄空敷差置申候段歎敷儀ニ奉存候間兼而仲ヶ間
心安候処より療治受度候間当年ハ別候ヘハ不気候ニ御座候ヘハ湿気にも相請ケ怪我
損傷致候節早速療治致候様被仰付度奉願上候右心附之次第奉言上候故之趣宜様
被伝達被下置度奉存候 以上
五月十五日  堀田兵右衛門  杉原初之助
坂部三十郎様



山裂る飛火の中にきえてこそたけきその名は世にひかりけれ
太田直蔵
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その6
別紙之趣心得其意武藤幾之助申出候可被申聞候 以上
五月二十三日
左之者坂部三十郎へ付属大炮打手相勤候様可被申聞候 以上
五月二十三日
三代口小人  武藤幾之助
別紙之通被伝聞候間此旨可被得其意  以上
五月二十五日 荒川岩之進殿   郡役所
左之者共必坂部三十郎へ付属大炮打手相勤候様可申聞  以上
五月二十四日  浜深口小人善三郎忰(せがれ)
                  渡部善吾
                  半沢万五郎                                                                                                              
口上之覚
別紙之通被仰付候趣只今相達申上候以書付御請申上候
御覧後本書当人江御渡被下度奉存候  以上
五月二十七日    荒川岩之進
坂部三十郎様


目の前に見ゆる昔の俤(おもかげ)も今日言の葉ときゆるかなしさ
                            北海漁夫
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その7
口上之覚
当御関所小人半沢万五郎、渡部善三郎忰善吾義ニ付御下宿江
差出候様被仰聞仍而両人差出申候其後日被下度義故  以上
五月二十七日    荒川岩之進
坂部三十郎様

五月二十三日申渡之覚
 諸月番
所々戦争之節死傷之者共左之通御手当被成下候但(ただし)疵(きず)ヶ所深浅ヲ顕し
病院見付出候様此旨得其意仲ヶ間并組支配へも可被申聞候事
御家来之軽一統
一、三両    深手之者
一、壱両弐分  浅手之者
町在之者
一、弐両    深手之者
一、壱両    浅手之者
一、三両    死傷之者

御困難ニ付而ハ御家中無給之子弟まて御軍役ニ付召使候処何れとも志ヲ立
夫々之御用向憤発相勤候ニ付左之通御扶持被下候此旨被得其意仲ヶ間并
御軍役相勤候子弟共可申聞候事
一、三人扶持ツツ  花影紐以上
一、弐人扶持ツツ  独札より紐製之子弟
一、壱人半扶持ツツ  甲賀格以下軽之子弟


姿には見えねと曇る俤(おもかげ)をまつるこころの思ひこそしれ
                       北海漁夫
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その8
五月二十三日
非常御切迫之此節ニ付而ハ御用無之罷在候
面々之志ヲ立申出候ハハ戦地之御用向可被仰成候条
早々可申出候、此旨被得其意仲ヶ間并組支配へも可被
申聞候事別紙利趣被致承知、仲ヶ間へ可被相備候  以上
                           郡役所
五月二十五日
武藤善四郎殿
1、三代口下番武藤幾之助、浜坪下番渡部善吾同断
  半沢万之助大炮打ち手被仰付出張致ニ付御定之通
  金壱両ツツ請取申候  以上
                   坂部三十郎
五月二十三日
兵粮方
此度大炮打手出張致候処御定之通金壱両ツツ御渡
相成候ニ付慥(たしか)ニ受取申候  以上
                  浜坪小人


血を吐て啼声添ひよほととぎす十まり三とせの五月雨の空
                              よしき
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その9
五月二十八日
半沢万五郎
渡部善吾
坂部三十郎様
1、二本松領只野村之女壱人参り居候処舟滞村江取抑(おさえ)置候処
  先方へ取合及吟味ニ慥ニ只野村商職衆舟津御用橋より被申出候ニ付
  右人江添人附三森峠送出申候事
  付
  五月二十九日
1、御霊櫃峠御出張鈴木大長始荒川健太郎、森幾右衛門、附人六人 合九人
  右之通御人数三森峠地乗為見分正月晦日ニ御出張ニ相成候ニ付
  御賄差出候事
  卯正月晦日
1、濃?共儀峠へ為登候処御霊櫃峠も相下候由三森峠之儀も
  六月朔日共相下ヶ申候事
  六月朔日
1、金七両弐分也
  右之通為探索金鎧小?長より六月二日に請取申候事



思ひ出て昔のけふを忍ふかな あはれ身にしむさみたれのそら
                          小山田孝清

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2011年1月21日金曜日

下北へ来た白虎隊

明治3年斗南藩領(岩手県北より青森県旧南部領)へ陸路、海路で移住してきた、白虎隊の少年達はむつ市の大湊で白虎隊の解散式をやったと、代々云われている。場所は多分ヤンシー号の上陸地以外考えられません。山育ちの会津衆が船酔いに疲れ、死ぬ思いで到着した、安渡港で最初に見たのが巨大な山、釜臥山だったからだと思います。釜臥山は会津磐梯山に非常に良く似ている為、その後旧会津藩士(斗南藩士)達は毎日のように山を見て故郷を偲んでいました。飯盛山で自刃した19名の中で石山寅之助の家族の流れを汲む、むつ市在住の石山さんは私達の同士であり、時々杯を汲みかわしていますし、又私の近所に有る阿弥陀寺のおばあちゃんは青森市のお寺の出身ですが、幼少の頃、有賀ちよ、と云う盲目のおばあちゃんが、その寺にいて、毎日白虎隊の話をしては涙を流していたそうです。おばあちゃんは、針子をしながら飢えを凌いでいるうち、その寺の住職さんの目にとまり、そのお寺さんに世話になっていたようです。19名の中の1人有賀織之助の身内だったのでは?白虎隊士350名と云われているが、ただ1人生き残った、飯沼貞吉(15歳)辞世の句(自刃する為直前に詠んだ句)

梓(あずさ)弓むかふ矢先はしげくとも、ひきなかへしそ武士(もののふ)の道

青森県三戸町の観福寺に明治4年斗南藩士によって建立された白虎隊士の墓があります。

2011年1月18日火曜日

ついに大間の町から伊達直人出現

今朝18日の朝刊を見て驚きました。大間のまぐろ漁師が東京都児童相談センターと青森県内鶴田町の児童養護施設へ38万円づつ匿名で寄贈したとありました。全国的に一時的な流行のように言われてもいますが、同じ町に住む一町民として、こんなすごい話に感動しました。1本2000万とか3000万とか報道される度に羨望の目で見られがちですが、実際には船の借金の返済と燃料代と人件費を引けば、かなり厳しい台所事情なのは地元の人達は知っています。其れにもめげず、施設へ寄贈したまぐろ漁師の心の中には1月11日の船玉神の祭礼日に釣り上げた事が彼の神に対する感謝の心を動かした原因なのと、もうひとつ11日の津軽海峡はかなりの荒れ模様で少数の船しか出漁していませんでした。その厳寒の海でも、釣り上げたその勇気と努力が成せばなると云う可能性を子供達への夢としてプレゼントしたかったのではないでしょうか。斗南藩士も感服しました。

2011年1月16日日曜日

費金覚記 その3

一金 十四銭五厘  阿久津駅宿代  
一金 四銭      昼飯代
一金 十八銭    阿久津駅より久保田駅まで舟三里
一金 一銭     船頭酒代
一金 一銭三厘  草靴一足
一金 八厘     卵一つ
一金 三十五銭  久保田駅より境駅まで人力七里
一金 一銭     車夫酒代
一金 七厘五毛  センベイ
一金 一銭五厘  菓子
一金 十九銭   境駅半旅篭並びに同村より東京大橋迄舟
一金 八厘    同所より両国橋まで舟
一金 四銭五厘 朝飯
一金 二銭    船中布団代
右田名部駅より東京までの路金合計金八円七十四銭七厘六毛
ただし内一円二十五銭一厘は不入用具石硯
こりより東京着後入塾まで
一金 一銭五厘    菓子
一金 十六銭五厘  東京馬喰町宿代
一金 六銭二厘五毛  同宿昼飯
一金 二銭   半紙一状
一金 二十銭  足駄並びに緒
一金 一銭七厘  日本橋あたりまで遊歩の戻りの節、人力
一金 十銭    同宿より澤氏まで人力
一金 二銭    車夫酒代
一金 十六銭  足袋一足
一金 十二銭五厘  金米糖(コンペイトウ)一箱澤氏へ
一金 八十四銭   袴仕立てたる品、但しのり付きにあらず
一金 二十銭    原田氏へ
一金 十銭     郵便切手ならびにハガキ
一金 八銭     上野駅より新橋シテーションまで人力車
一金 三十銭    新橋シテーションより横濱シテーションまで汽車
一金 五銭     シテーションより和田氏まで人力車
一金 二円   和田氏へ        
一金 三十銭  和田祖母様方、乳汁一ブリキ(一缶)   
一金 五銭  横浜より神奈川シテーションまで人力
一金 二十五銭  神奈川シテーションより新橋シテーションまで汽車
一金 二十五銭  旧知事公(松平容大は数え十歳)に献ず
一金 五銭  シテーションより人力車
一金 十九銭三厘五毛  鰻飯二膳並びに泉岳寺案内賃
一金 二銭  新書筆一本
一金 十四銭五厘  足駄ならびに緒共に
一金 四銭  そば五膳
一金 八厘  入湯一度
一金 二銭五厘  澤小児方へ手土産
一金 六厘   エ門竹一本(衣紋竹)
一金 二銭   卵二つ
一金 二十銭  櫃(ご飯を入れるひつ)
一金 四十銭  机
一金 五十五銭  白ジ木綿一反
一金 一円四十五銭  紺カスリ一反
一金 二十銭  右二反の裏ならびに肩えり
一金 七銭一厘  散髪
一金 五銭  錠
一金 六十銭  シャップ(帽子)
一金 二銭  郵便切手
一金 三銭  塵紙
一金 二銭  郵便切手
一金 十二銭  水呑大コップ一つ
一金 一銭  郵便ハガキ
一金 四銭  蕎麦五膳代
一金 十銭  薩摩芋澤氏へ
一金 十銭  スシ並びに菓子茶代
一金 五十銭  茶一斤
一金 二厘  橋代
一金 六銭  単衣一枚仕立賃
一金 二銭  半紙一状
一金 三銭  植木セキジク二鉢
一金 七銭五厘  写真六枚代ただし人物書共
一金 四銭  浅草遊歩の節生人形二度見物
一金 一銭五厘  菓子澤小児へ
一金 六厘  浅草寺賽銭
一金 九厘  カンノン札三枚
一金 一銭五厘  貝造見世物 
一金 一銭五厘  首切り見物
*首切りとはマジックショーの事だと思います。